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銀の羊の数え歌
【純愛 恋愛小説】

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銀の羊の数え歌−2−-2

         □□□□□

目覚めに熱いシャワーを浴びてから、急いでジャージに着替える。髪の毛が生乾きのままだが、悠長にドライヤーで乾かしている時間はない。確か今日は朝食の準備から手伝わなければならないので、遅くても七時十五分には食堂に入っていなければならなかったはずだ。
入り口で靴を履きながら、腕時計に目を落とす。七時十分。ここから第一授産寮までの距離だったら、全力疾走すればギリギリ間に合うだろう。僕は靴のかかとを半分つぶしたままで宿泊室から飛び出した。降りそそがれる柔らかな春の日差しに、目を細める。額に片手をかざし、空を見上げる。 鮮やかなパステル画のようなブルー。
今日も雲一つない快晴だ。

各円テーブルにお盆を並べ、その上に朝食のパンと牛乳。デザートと軽いサラダののった食器をあげていく。ここで気をつけなければならない事が、主に二つある。一つは、各々の理由から、おかずを少量しか食べられない人がいるのでそういう人にはおかずを少しだけ盛ってやるということ。もう一つは食事中にのどに詰まらせる危険性のある人には、あらかじめ細かくきざんだおかずをつけること。と、まぁ偉そうな事を言っているが、この事は僕もここへきて初めて知った事だ。僕や職員、それにその日当番になっている数人の入所者が食事の準備をしている間、他の入所者たちはテレビを見たり、廊下で話をしたりして放送で呼び出されるを待っている。 ここで言う放送とは、食事の用意が出来た事を知らせる寮内放送の事で、それが流れると、ほとんど同時に、腹を空かした入所者が食堂へなだれ込むというわけだ。勿論、この朝だって例外ではない。それまで静かだった食堂が、放送が流れたとたん彼らの声でぱっと花が咲いたようににぎやかになる。
僕はみんなが自分たちの席に座るのを横目で見ながら、キッチンの奥でエプロンをとった。ぐっと天井へ伸びて、両腕を下ろすのと一緒に息を吐く。体中がおそろしくだるいのは、この作業のせいだけではない。多分、昨日の疲れが少し残っているからだろう。午後の仕事のみであれだけ疲れたのだ。今日一日働いたらどうなるか。想像しただけでもぞっとしてしまう。そうこうしている間に全員が席につき、僕も丸めたエプロンを片手に、慌てて自分の席につく。『いただきます』は、全員がそろってからでないと言えない規則なのだ。
ふと隣り−『柊由良』−の席を見ると、食事の用意はされているのに、本人の姿がない。 (ひょっとして、トイレかな?)
辺りを見回す。向かいに座っている田中さんが、僕よりもっと向こうを見ながら手を振った。
「柊さん。遅い、遅い」
「ごめん。トイレに行ってたの」
知的障害者には珍しい、歯切れがいい口調。 だけど僕が思わず振り向いてしまったのは、その声があまりに涼やかな、澄んだアルトだったからだ。そして、それはちょうど彼女が隣りに立ち、偶然、僕を見下ろした時だった。お互いの目が合った瞬間、僕の心臓がバクンッと音をたてた。彼女だ。間違いない。昨日の、窓越しに目が合った女の人だ。黒と白のストライプの長袖Tシャツに、褪せたブルージーンズ。昨日みたいにおしゃれな服装ではなかったが、しばたく僕の両目に映っているのは、まぎれもなく彼女−柊由良−の凜とした顔だった。彼女は僕がなにか言うよりも先に、
「ああ!」
と声をあげ、そのまま自分の席に腰を下ろして二の句を継いだ。
「昨日、会った人だよね?ね?」
「あ、ああ…うん」
と、かろうじて頷く。本当は、狂ったように早鐘を打ちまくっている心臓の音がうるさくて、言葉の半分も聞きとれなかった。まさか彼女がここの入所者だったなんて。その事だけが頭の中でグルグルと渦を巻いている。 意味不明のショックが喉に詰まって呼吸さえ苦しい。不意に、うつむきかけた僕の顔を彼女がのぞき込んできて、驚いた僕は弾けるように体をのけぞらせた。彼女のアンティーク人形のような褐色の瞳が、そこに走る狼狽の色まで見透かすように、僕の瞳を見つめている。
(なんのつもりだ?)
ようやくそう思えたのは、彼女が僕に向かって、小さな右手を差し出した後だった。
彼女の顔が、はにかむように微笑んだ。
「柊由良です。よろしく」


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