嫁と言いたい旦那さま-3
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―― そろそろ昼にさしかかろうという時刻。
サンドラはカルテの整理に一区切りをつけ、ふぅっと息を吐いて窓から通りを眺め降ろした。
濡れた石畳の上を、雨具を抱えた人々がせわしなく行き来している。
朝からの豪雨は先ほどピタリと止んだものの、空はまだ厚い雲に覆われており、またすぐに振り出してきそうな気配だ。
すぐ近くの店へ行くのも躊躇ってしまうくらいの酷い降りようだったから、雨が止んでいるうちに用事を済ませてしまおうと、誰もが思っているのだろう。
ルカも先ほど、予備の蜂蜜壷が空だったと言い、急ぎ足で買い物に出かけて言った。
ちなみに、蜂蜜壷が空だったのは、ルカが備蓄を忘れていたのではない。ここしばらく激務だったサンドラが、こっそりつまみ喰いをしたせいだった。
―― 全部食べるつもりは無かったの……っ! あともう一匙が美味しくてっ! 気がついたら、壷が空っぽになってたのよぉぉっ!!
サンドラは胸の内で懺悔する。
減った分の蜂蜜は、内緒で買いに行こうと思っていたのに、忙しくてすっかり忘れていたのだ。
そして、蜂蜜消失事件の犯人に気づいているだろうに、特に追及もせずに買出しに行ってくれた心優しい助手の帰りを、サンドラは申し訳ない気分で待っているというわけだった。
「……あら?」
窓から見える景色の中。急ぎ歩く人々の合間を、黒い影のようにスルスルとすり抜けていく男の姿が見えて、サンドラは思わず腰を浮かせた。
まっすぐにこちらへ向ってくるのは、間違いなくカミル。
窓から見える範囲から、ふっと彼の姿が消えたかと思うと、間髪をいれずに階下の呼び鈴が鳴らされた。
今は血を欲する時期でもないし、研ぎを頼んだメスも、先日に届けられている。
親睦だけを理由に尋ねてくる男でもないから、何かあったのだろうか……?
サンドラは階段の手すりを滑り降り、わずか数秒で一階まで着く。
急いで扉を開けると、黒いフードを払い除けたカミルが、相変わらずの無愛想なしかめっ面で、バスケットを突き出した。
「届け物だ。『俺の嫁』が焼いた。先日、世話になった礼らしい」
たっぷり五秒間。
サンドラは沈黙してから、ようやく間の抜けた声で聞き返した。
「―― よ め ?」
布巾をかけられたバスケットからは、甘く香ばしい匂いがほのかに漂い、中身はとても美味しいものだと告げている。
だが、しかし。
この男は今、何と言った……?
よめ……? よめって……嫁?
「ああ、まだ言ってなかったが、ディーナに小間使いを辞めさせて、『俺の嫁』にした」
「へ、へぇ……」
「『俺の嫁』は、直接自分で届けたかったようだが、今日はこの天気だからな。代わりに持ってきた」
うん。ディーナを嫁にしたというだけなら、特に驚かない。
むしろ、よくやったと一緒に喜びたいくらいだ。
しかしなぜかカミルの声は、『俺の嫁』という部分だけ『』つきで非常に強調されて聞こえるのだが。
さらに、それを口にするたび、この男が非常に勝ち誇った顔になるのも、絶対に気のせいではないはずだ。
そしてよく考えれば、あの苦労性で遠慮がちな少女が、自分からカミルにお使いを頼むようには思えない。
たとえ天候が悪くても、カミルの方から言わなければ、まず頼んだりしないだろう。他の日にするなど、そう対処するような気がする。
―― さてはアンタ、『ディーナは俺の嫁』と、ここで連呼したいがために、お使い役を強引に勝ち取ったわね?
だが、心の中で盛大にツッコんだものの、口には出さず、サンドラは大人しくバスケットを受け取った。
この気難しい男に下手な事を言って、せっかくの美味しそうな贈り物をフイにするなんて。
そんな危険を冒せるわけがない。