嫁と言いたい旦那さま-2
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――翌朝。
朝食を作りあげたディーナは、最後にミトンを両手にはめ、やや緊張しながらオーブンを開けた。先月に採って煮ておいた栗を、丸ごとたっぷり入れたケーキが、熱く甘い香りを纏いながら姿を現す。
長方形をしたケーキの表面は、こんがりと良い焼き色になっていた。串を刺して、中身も申し分ない焼き加減なのを確認する。串についた金色の欠片を味見すれば、今までで一番の出来栄えだと、誇らしく思えた。
型から外して網皿に乗せ、あとはこのまま、冷めるのをまって切り分けるだけ。お茶の時間に美味しく頂けるだろう。
(旦那さま、いっぱい食べてくれるかな?)
ディーナはケーキを冷ます網を慎重に棚へ置き、甘いものが好きな『旦那さま』を思い浮かべて、ニコニコと頬を弛ませる。
一週間前に、小間使いを辞職してカミルのお嫁さんとなったわけだが、実際の生活は余り変わらない。
だって、もうずっと前から自分は、小間使いというよりお嫁さんのように大事に扱われていたのだから、変わるわけがないのだ。
道理でアルジェントの元締めやバロッコ夫妻が、ただの小間使いにしては優遇されすぎていると言うわけだし、自分でもその幸せを改めてヒシヒシと実感した。
変わったと……強いて言うなら、心なしか夜の生活が前より激しくなったような気がするくらいか。
しかし、それだってカミルに求められているのだと思うと、恥ずかしいながらも嬉しいような気がするのだから、我ながら困ったものだと思う。
『旦那さま』と、呼び方も以前と一緒だが、その響きは少し違う。前よりももっと素敵で、甘いものになった。
ディーナの――私の旦那さま――とても素敵な言葉だ。
どうにも頬が弛んでしまうのが堪えられず、フフフとディーナは口元を綻ばせた……が、唐突に鎧戸を叩きだした雨音に気づき、ハッと我に帰った。
「嘘っ!」
慌てて鎧窓を開けてみると、早朝には雲ひとつなかったはずの空が、いつのまにか一面の雨雲に覆われ、大粒の雨が盛大に降り注いでいる。
「ああ〜……これじゃ、サンドラ先生の所は無理か……」
ガラス窓だけを閉め、瞬く間に土砂降りとなった激しい雨を眺めながら、ディーナはガックリと肩を落とす。
いつもより大きな型で焼いたケーキは、サンドラとルカの所へ半分届けにいくつもりだった。
誘拐された時、サンドラにも多大な協力をして貰ったのだが、あれから彼女もなかなか忙しいそうで、まだきちんとお礼に行けていない。
それで、街の裏側も随分と落ち着いてきたそうだとカミルから昨日聞き、朝食作りと一緒にはりきってケーキも焼いたのだが……。
「はぁ……旦那さまに、天気を聞いておけば良かった」
防水マントを着てバスケットごと包んでも、この豪雨では街までケーキを守りきれるか怪しいものだ。
しかも、雨の山道は滑りやすく危険だし、あまり激しい雨の時には外へ出ないようカミルからも言い含められている。
今日のケーキは、我ながら良い出来栄えだったが、サンドラ達に届ける分は、また後日に作り直した方が良いかもしれない。
「大雨だな。どこかに用事があったのか?」
唐突に背後から声をかけられ、ディーナは飛び上がるように振り向いた。
いつものことだが、気配を全く感じさせないまま、カミルがすぐ後に立っていた。
「あ……その、ですね……」
もういい加減に慣れてもいいはずなのに、いきなりこの大好きな旦那さまに急接近されるのは、やっぱり心臓に悪い。
ディーナはドギマギしながら、カミルにケーキを作った理由を話した。
「――なるほど」
聞き終わるとカミルは頷き、窓の外へと視線を向ける。
大粒の雨を降らせる曇天を、赤い瞳でじっと眺め、それから栗入りのケーキへチラリと視線を走らせた。
「だったら、俺が届けにいこう」
「旦那さまが?」
予想していなかった言葉に驚き、ディーナは目を丸くする。
「昼すぎに雨は一度止むが、半刻ほどですぐにまた降ってくる。それからは、明後日まで降り通しだ」
だから、雨が止んでいる僅かな間に自分が届けに行こうと、カミルは申し出てくれた。
ディーナの足では、街まで半分ほどしか行かないうちに、また土砂降りの雨に見舞われてしまうだろうが、カミルなら急げば雨が止んでいるうちに届けて帰ることも可能だろう。
「……良いんですか?」
自分がお礼にと作ったものを、カミルに届けさせるのはなんだか気が引けてしまい、ディーナはおずおずと尋ねる。
「誰が届けても、味は変わらんだろう。それよりも、せっかくの良い出来栄えをフイにする方が惜しい」
素っ気無い口調でも、その言葉にはケーキの出来栄えへの賞賛が篭められていて、ディーナは思わず頬を弛ませてしまった。
「じゃ、じゃぁ……お願いします!」
「ああ」
頷いたカミルもいつになく嬉しそうで、ディーナは更に幸せな気分となった。
やっぱり、『私の旦那さま』はとっても素敵だ。