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-3

 確実に建物との距離は縮まっていく。ぐんぐん大きくなった。勾配のため見えなかった門柱の頭が現われてきた。
(もう少しだ)
喉が引きちぎれそうにぜいぜい鳴る。
(もう少しだ!)

 何十度も急斜面になったように感じて男の脚は義足と化した。気がつくと犬も走っていた。
(俺を追いかけている?)
来るな!ついて来るな!

どっと臓物がひと揺れして、男は建物の前にたどり着いた。犬も立ち止まった。振り向いてみると道路はゲレンデに見えた。


 タイル張りの大きな門には<N大学付属病院>という文字が金色に輝いている。男は吹き出す汗を拭いもせず、しばらくその文字を眺めていた。
 
 尻のポケットから手帳を取り出し、電話ボックスに入った。犬は男に仕える忠犬のようにうずくまった。
 ボックスの中は噎せるほど熱い。足で扉を開けたまま電話を耳にあてた。

 曲線と直線を生かして建てられた病院も、広い庭も、ギラギラと陽を反射する窓ガラスも、悉く物質的な存在が、真昼間でありながらどういうわけか深夜の雰囲気で見られた。犬も真夜中の犬の感じで蹲っていた。
 男は眉間に皺を寄せてネクタイを緩めた。

「モシモシ、301号室のタケダの家族の者です。妻の手術は……。はい……。ハハを呼んでいただきたいんですが。……はい……」
 犬はぐったりしていた。しかし目をはっきりと見開いて男を見上げている。

「あ、モシモシ、オカアサン。僕です。いま手術中だとか。……そんなこと、いま言われても。僕だって急いで駆けつけて来たんです。……そうじゃありません。……僕を信じていないんですね?」
犬が頭をもたげた。
「それは誤解です。そんな気持ちでいたらここまで来ません。……いま病院の前です。……ちがいます。あ、待って、モシモシ……」
男の顔はどこか犬に似ていた。

 ボックスを出ると思いのほか大きな音を立てて扉が閉まった。
煙草の箱を取り出し、空だとわかると握りつぶして犬に投げつけた。犬は反射的に目を瞑った。
「何してるんだ、そこで」
苛立ちが起こってきて思わず足を上げた。犬の横腹を蹴飛ばした。量感のある鈍い音がして犬はグウと呻いた。しかし立ち上がっただけで逃げようとはしない。
 
 男は舌打ちをして、ふたたび病院の門の前へ行き、眼前に聳える建物を見上げた。
「前に、来たことがある……」
男がここへ来たのは初めてである。だが、遠い昔、いや、昨夜かもしれない。夢でみたように思えてきた。
(待てよ……)
「本当に来たことがある……」
不意に殺気を感じて振り向くと、犬がいた。
「この野郎。脅かしやがって……」
男が足を振り上げると、音も立てずに飛びのいた。
フフフ……。犬が笑った?
ぞっとして唾を飲み込もうとしたが唾液が出ない。

「幻聴か……。幻覚、幻聴……。俺のほうが病気なんだ。俺こそ病人なんだ」
やにわに来た道を走り出した。

 走ってみて愕然とした。まるで転げ落ちていくような加速が急激についた。
(だめだ!)
止まろうとしたが、勢いがさらに加わっていく。そのまま惰性に任せるしかなかった。しかし、その勾配を駆け降りるには男の限界以上の脚力が必要だった。
 足がもつれ、前のめりになるのを堪えた。
(転ぶ……)
そんな体勢でありながら、男はなぜか振り向こうとした。


 急ブレーキの音がつんざき、トンっとゴムが弾んだような音がした。
血液が湯気を立てて流れている。男の顔面は崩れ、一瞬の出来事の後に『肉塊』となった。
 流れる血はまだ生きていて、それだけが持つ囁きが聴こえてくるようである。

 犬の唸り声が『肉塊』に向けられた。それは闘争のそれではなく、恐怖のそれだった。尻尾は股に挟まれて牙が剥き出しになった。
 犬の動きは素早かった。あっという間に道を駆けのぼり、病院の門に突き当たると、ひらりと体をよじって右に折れ、間道に消えていった。

 灼熱の、広場のような道路の真ん中にガヤガヤと人が集まってきた。


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