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 どこからか蝉の声が聴こえてくる。だが、蝉が憩うような樹木は見当たらない。
(どこに?……)
それ以上は考えなかった。視界に入らないどこかに小さな公園でもあるのだろう。よくある真夏の昼下がりだと思えばいくらか気が静まる。

 突然、男は狼狽を見せた。何かに威嚇されたような恐怖を感じた。
頭に痛みを覚えた。不安定と緊張が体を空中に持ち上げていく感覚を走らせる。何もかも、すべてのものが根本的理由を白紙にしようとする。
「ええい、知るものか……」
煙草を投げ捨てると、ぎょっと足を竦ませた。

 ポコリ、ポコリ……。道路に足跡がある。切迫した恐怖を感じて辺りを見回した。誰もいなかった。
 犬を見た。
(!……)
戦慄が走り、よろけた。
(犬が笑った?)
おそるおそる道路を見ると、足跡はなかった。
「幻覚か?……」

 男は歩き出す。建物は相変わらずの大きさに見える。すぐにたどり着きそうでいて、まだかなり距離があっるような気もする。

「野良公、お前、どこへ行くんだ?」
男の姿勢は少しずつ前のめりになっていく。太陽は煮えたぎり、地上を蒸し返している。
 男は小さな苛立ちが心にこびりついているのを感じていた。それがどこから発生したものか、混沌とした想いの中で考えながら、徐々になぶり殺しにするような灼熱の道路を少しでも狭く感じようと電柱の数を数え始めた。

(影がない!)
そうではなく、、南中の時刻か……。
 かすかな金属的な音が聴こえて男の歩行を妨げた。
「ああ、頭が痛い……」
崩れるようにその場に寝ころんだ。

 眩い日差しに目を閉じた。熱い呼吸が不規則だ。死角に近いところで自分の胸が上下するのが見える。道路の表面は焼けるようだが、呻きを洩らしながらそのままでいた。薄く目を開けると空は白かった。

 犬がうずくまって男を見ている。
「野良公、何してるんだ?」
口に出してから、おやっと思った。
(この犬、どこから付いてきたのだろう……)
そして、ふと、それは決まり切ったことのように考えた。
(こいつ、俺を食おうという気じゃないのか?……)
改めて、ぐったり横たわった自分の肢体を思うと死を間近の肉塊にも似ている。

『実はそうなんだよ』
犬が笑った?
「馬鹿にしてやがら……」

「熱い!」
男は手の甲をさすりながら身を起し、ぎこちない動作で立ち上がった。
 目まいが男を翻弄した。熱波のような渦が眼球をえぐる。
 ふらつきながら足元を安定させると、犬を蹴飛ばす真似をした。犬は身構えることもしない。
「変な考えを起こしてくれるなよ……」
男は呟き、思い出したように時計に目をやると突然走りだし、息を切らせて、またゆっくり歩き出した。

(今日のような暑い日……)
男は子供の頃にやはりこんな道を歩いたことがあったと記憶を手繰り寄せながら、それがいつ、どこだったかということが思い出せなかった。ひょっとすると、夢だったかもしれない。……
(あの時は苦しかった……)
死んでしまうかもしれないと思った。
(死ぬ?……)
いやなことを考えた。
 男はまた時計を見ると、横目で犬の姿を確かめ、駈け出した。   


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