観葉植物-1
新太の寝床になっているナチュラルブラウンのコットン調の生地で造られた三人掛け程のソファーの真横には、湊の背丈の半分程の高さのパキラが置かれている。
元々は、湊の膝の丈程しかない小さめな観葉植物だった。しかもろくに手入れもしていない事で、新太がここに住み頃始めた頃にパキラは幹も葉も伸ばさず枯れかけていた。
「ねえ湊サン、これ、なんて名前の木？」
新太は、枯れかけた鉢を指差し名を訊ねた。
「パキラよ…」
「へ〜…、パキラって言うんだ。てかこいつ、なんだか死にかけてる感じがする」
「ろくに手入れしてないから…」
湊は苦味混じりの小さな笑みを新太に見せて、
「…私、観葉植物はあまり好きじゃないの」
そう呟いた。
好きじゃないという言葉は本心ではなかった。
『一緒に思い出を積み重ねながら大事に育てよう』
結婚を期にこのマンションを購入して、引っ越す際にそう言ってパキラの鉢植えを一緒に選んだ夫が世を去ってしまった事で、鉢植え自体が辛い思い出になってしまっているのが湊の本当の気持ちだった。
パキラが育つ事で、流れゆく独りの時間を感じてしまう事が怖かったという気持ちもある。
記憶というものは時間が経つ事で新しい記憶に上書きされて、古い記憶はやがて薄れて淡くなってしまうものだ。
大切な彼の声や、表情や仕草。
どれも後生鮮明に思い出し、決して忘れる事などないだろうと思っていた。
けれど時間が経つにつれ、決して忘れたくないのに、しっかりと記憶を捕まえるように手繰り寄せなければ、そのどれもが淡く薄まってしまう事に気が付いた。
湊にはそれが堪らなく寂しくて、悲しかったのだ。
「なんだかこいつ、僕みたいだ…」
新太は、枯れかけた鉢植えを見つめて、
「…水をやったら、少しずつ元気になるだろうか」
そう言って湊を見た。
「どうだろう。わからないわ…。もうそこまで枯れてしまったら…」
「でも可能性はゼロじゃないよね？」
新太の言葉は、まるで自身の可能性を重ね合わせて問うかのような声色だなと思わずにはいられない。そんな持ちになった湊は、数秒黙した後に、
「…そうね。きっとゼロではないと思う」
なんだかそう応えずにはいられなかった。すると、
「ねえ、湊サン」
新太は小さな小さな笑みを湊に向けて、
「このパキラ、僕が世話してもいいかな…？」
そう願いを口にした。
「…それって、しばらくここにいたいって事？」
湊の問いかけに、
「…僕もこいつみたいに枯れかけているから、水や養分が必要だと思う。…それから湊サンにも…」
「枯れかけてる？ 私が？」
湊は、心を覗かれた気持ちになり、新太の視線から少し逃げるように苦笑した。
「湊サン、顔に寂しいって書いてある。きっと僕も…」
「…キミ、寂しいなんて言葉を、臆する事なくよく口に出せるわよね？」
少し呆れた顔を見せた湊に、
「寂しいって言葉は、伝えたい人がいる時の為だけに使う事を許される、分け合いの言葉だと思うんだ」
独りきりだと怖くて決して発する事が出来ない言葉なんだと、新太は理解した上で湊に寂しさという気持ちを分け合う為に打ち明けた。そう悟ると、湊は、
「私と何かを分け合いたいなら、毎日キミの事を少しずつ私に教えてくれる？」
ふうわりと表情を和らげて新太を見つめた。
「僕の名前は、池上新太です。歳は26歳。現在訳あって、住所不定の無職ですが、悪い事をして追われてる身とか危険な過去を持ってたりはしません」
新太はそう言って、
「湊サン、お水が欲しいな…」
小さな小さな笑みを浮かべた。
「…霧吹き持ってくるわ、新太」
湊は、新太の名前を呼んで、パキラにやる水の為の霧吹きと、新太と自分にコーヒーを淹れる為にダイニングへと歩いた。
その日以来、新太は毎日朝起きて一番にパキラに水をやる事を忘れずに続けた。
その姿はまるで、自身の可能性や成長を期待するかのように見えて、湊は心の中で新太と枯れたパキラにエールを贈っていた。
水やりを始めて一週間が過ぎた日曜の朝。
「湊サン、見て！」
それは、新太が始めてはっきりと発した『喜』の表情だった。
「わあっ、新芽が出てるじゃない！」
パキラの鉢を見て、湊も思わず目を見開き、少しだけ頬を紅潮させて『喜』を発した。
「すごいね、こいつはちゃんと生きてた…」
フローリングに四つん這いになり、食い入るようにパキラの新芽を見ながら、まるで幼子のように笑った新太を見て、
「キミも。…新太もちゃんと生きてる」
湊は、
「…そして。私も。ね？」
人間の感情は、易々とは死なないものだ。
そう思って新太の背中をそっと抱き締めた。