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流れゆく雲は山の彼方に
【その他 官能小説】

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その(2)-2

 ミカネエが買ってくれた服を着て、白い靴を履いたアリサははしゃぎまわっていた。
「家の中で靴を履くんじゃない」
親父はたしなめたものの、強くは言わなかった。
 アリサはそれを身に着けて明日町に行くのである。それがどういう意味をもつのか、私は知っていた。

「アリサ、町に行けるぞ」
親父は丘の方を指さして言った。
「兄ちゃん、町だって!」
アリサは嬉しそうに私に小首をかしげてみせた。
 私はアリサから目をそむけると、昨日から続いている煮えくりかえるような憤懣を親父に向けた。
「父ちゃん!」
「黙っていろ!」
親父は私の目を見ずにズボンのポケットからくしゃくしゃの札を出した。
「アキオさんのところに行って、鶏一羽分けて貰ってこい。早くだ」
そうして声を落してアリサを呼んだ。
「今夜は御馳走だからな」
ミカネエが死んでからふたたびどん底の生活になっていた。

 アキオさんに鶏を絞めてもらって、私は羽をバリバリむしりながらオイオイ泣きじゃくった。
「どうしたんだ?」
アキオさんのやさしい言葉にいっそう悲しくなって涙が溢れた。そしてただ何度も首を振って羽をむしり続けた。


 辺りが暗いうちに家を出た。親父はマルの手綱を引き、私はアリサの手をしっかり握った。
 アリサは新しい服に身を包み、歩きづらそうな靴を何度も見おろしながらトコトコと歩いた。まだ眠いのか、顔はやや不機嫌である。
「どうしたアリサ。眠いか?」
親父が滅多に見せない笑いを浮かべて立ち止まった。
「マルに乗っていくか?」
私は親父の顔を睨みつけて心で叫んだ。
(アリサ、乗るな、帰ると言え、帰ると言え!)

 マルに乗ったアリサはちょいちょい私を見おろして嬉しそうにみそっ歯を見せた。
道の傍らに、宵待ち草がまだ枯れずに咲いている。私はそれを四、五本摘んで、馬上のアリサに見せびらかした。クンクン鼻をつけて、
「いい匂いだなあ」
「いい匂い?」
「ああ。いい匂いだ」
「ちょうだい」
私は無視して匂いを嗅ぎながら立ち止まった。
(欲しければ、帰ると言え……)

「それちょうだい。兄ちゃん、黄色い花ちょうだい」
振り向いた親父がぽつんと言った。
「それをくれてやれ」
力なく、淋しそうに言った。

 峠に差しかかり、馬上のアリサを見上げた。
「振り向いてみろ、アリサ」
私の、私たちの村が一望できる。貧しい村だ。点在する家が情けないほど小さく見える。
 太陽が右手から上がって、光は真横に射し、家々の西側には影が生じ、明暗が美しい。小川がキラキラと輝く。川向こうの家の庭で麦わらを被ってゆらゆら揺れているのは、アキオさんが鶏に餌をまいているところだろうか。誰かが小川で米を研ぎ、誰かが井戸で水を汲んでいる。すべてが透明な村だった。

「アリサ、いい景色だなあ」
(お前の村を忘れるな)
言いたかったが言葉が出てこなかった。
 ミカネエもアリサもいなくなる。
(本当にアリサをあげてしまうのか?)
私は黙々と歩く親父の背中に問い続けていた。

 知り合いの雑貨屋の裏庭にマルを繋ぎ、そこからはバスに乗った。
 停車場で待っていた着物の女は四十がらみであった。鈴を振ったようなきれいな声で、俯いた面差しが遠い記憶の母親に似ている気がした。
 親父は何度も女に頭を下げ、風呂敷包みと一緒にアリサを渡した。

「いい子ねえ」
女は屈み込んでアリサの頬や頭を撫で回した。そして少し離れて見ていた私に向って会釈をした。
「もっとそばに来い」
親父は私を呼び、私の頭を押さえて無理やり礼をさせた。
「何年生かしら?」
私が返事をしなかったので親父が苦笑して代わりに答えた。
「五年になります。生意気で手を焼かせてばかりで……」
「男の子はそのくらいでちょうどいいんですよ」
愛想笑いを見せ、
「でも、育てるんだったらやっぱり女の子の方がねえ」
親父はいちいち頭を下げ、相槌を打った。

 列車がホームに入ってきたが、女は改札に向かわない。
「乗らないんで?」
「ええ、家はバスの方が便がいいんですよ」
「さようで……」

 砂埃を巻き上げてバスが来ると、女はアリサを抱き上げて乗り込んだ。すると親父が真っ赤な顔で涙を流し、
「お願いします。幸せにしてやってください」
 座席についた女は窓を開けてアリサの顔を見せながら、
「心配いりませんよ」
少し涙ぐんだ様子だった。

 アリサはびっくりした目で親父と私を見おろしていた。何が起こっているのかわからないのだ。もはや萎びた宵待ち草を握りしめている。私は見ていられず顔を伏せた。
「兄ちゃん!」
見上げると涙でアリサがぼやけた。
やっと事態の異常さを察したようだった。
 私は堪えた涙がこぼれ落ち、泣きながら親父の肩の辺りを拳固で殴った。
「兄ちゃん、あたし帰る。町はもういい、村に帰る!」
火のついたように泣きだした。
 バスのドアが閉まってググっとギアが唸った時、
「早く何か言ってやれ」
親父が言った。
私はしゃくりあげながら、
「アリサ!さよならだ。丘を越えたからさよならだ!ミカネエと同じだ。もうさよならなんだ!」
アリサの泣き声が空に吸い込まれるように聴こえなくなって、親父に肩を叩かれても、私はその場を動くことができずにいた。



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