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流れゆく雲は山の彼方に
【その他 官能小説】

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その(1)-1

 朝の透明な光が差し込む縁側に親父とルラがいる。ルラは四歳になる私の娘、親父には初孫になる。
 さっきから、ルラは祖父の膝の上で雑記帳に何やら絵を描き、親父は目を細めて孫の頭を何度となく撫でまわしている。
 私はのどかな光景だと思いながら、煙草をくゆらせ、部屋の奥から眺めていた。時の流れがゆっくりと進んでいるようで、眠りを誘うような陶酔に似た感覚が訪れる。

 前方の丘は昔と変わらず、牛の背のように盛り上がって緑の草に被われた山肌をみせている。しばらくぶりに見る麓の神社の藁屋根がやけに小さくみすぼらしく見えるのは自分が大人になったというより、この村が朽ちかけている証のようにも思える。
 この村には鉄道はおろか、バスも通っていない。町へ行くには丘を越え、その先の村落からさらにバスで一時間もかかる。その町とてひなびた田舎町である。大きな町はそこからまだだいぶかかるのだった。

 丘は相変わらず威容を誇っていて、そこを越える人間を拒むかのように迫ってくる。まるで小さくなった親父を押しつぶそうとしているようだ。孫は与えられた紙にクレパスを塗りたくっている。

 親父の皺だらけの顔が丘を振り返る。数十年の苦悶はその面容を、もはや変えようもないほど無惨に切り刻んでいた。まるで猿のようだった。
(もう、いいだろう……)
苦悩を抱えて生きてきたはずだ。この上親父に何を強いることがあろう。長年の罪悪に萎びてしまったミイラのような老人に責めを科すのは不憫だと思う。酷なことだと胸が詰まる。ミカネエもアリサもこの親父の姿を見たら、きっと許すと言うにちがいない。あれほど憎しみ続けた私でさえ、いまこうして寛容な気持ちに包まれているのだから。……


 ミカネエはきれいな女だった。首が細く、いつもおさげ髪にしていたからとても首が長く見えた。項に陽が当たると肌が桃色に霞んで、金色の産毛が柔らかく風に揺れた。

 その頃、私は十歳、ミカネエは四つ上、妹のアリサはまだ学校へも行っていなかった。母はアリサを生んですぐ死んだ。だから小さい頃からミカネエは私とアリサの母親代わりで、実際ミカネエのことを‘母ちゃん‘と呼んで甘えてみたこともあった。それはたいてい、親父にわけもわからず殴られたり、怒鳴られたりした時など、ミカネエの背中に抱きついてそっと呼びかけるのである。そんな時の彼女はヤギの乳のような甘い香りがしていた。

 親父は百姓もしていたが、主に牛馬の仲買いの仕事を生業としていた。後から知ったのだが、市場を通しての売買ではなく、闇の仕事だったようでトラブルも多かったらしい。家にも何度か金を返せと押しかけてきた者がいたのを憶えている。
 いったん家を出ると数日戻らないことは珍しくなかった。
「父ちゃん、どんな顔だっけ?」
あどけない顔でアリサが訊いたことがあった。

 それでも私たちの父親であり、丘の峠を下ってくる親父の姿を見つけると私もアリサも麓へ向って走って行ったものだ。駄馬のマルを引いた親父を目指してがむしゃらに。
 駆け寄っても親父は笑顔も見せず、私たちに声をかけることもなかった。ただ仏頂面で黙々と歩くばかりであった。
 マルは年老いた馬である。私はその優しい目を見るのが好きだった。おなかを叩くと私を見つめている気がする。アリサも真似してぴたぴたと叩く。そうして無言の親父と家の入口まで来て、親父におずおずと訊く。
「町に行ったの?」
親父は面倒臭そうに口を動かす。
「ああ、向うは町に決まってる」

 私は何度か町に行ったことがあった。学校の遠足で一度、親父が大儲けをしたと上機嫌だった時に休日に遊びに行ったことがある。アリサにはその記憶がなかったから意味もわからず、しきりに町に行きたがっていた。ミカネエに時々ねだっていた。
「今度ね。みんなで行こうね」
親父には決して言わない。
「町など何が面白い!」
いつかのように怒鳴りつけられるのがわかっていたから。……

 ミカネエは中学を出ると就職もせず、家の事に追いまくられて過ごす毎日だった。町に出れば仕事はあるが通うのは無理である。
「家の事はどうする。弟妹の世話は誰がする」
「お金送るから」
ミカネエは家を出たかったんだと思う。私たちを捨てる気などなかっただろう。ただ、町の空気を胸いっぱい吸い込みながら自由に暮らしてみたかったんだと思う。

 家事をこなし、細い腕に鍬を持って畑を耕し、さらに神社の近くのイサオさんの牛の世話まで手伝って駄賃を貰い、牛乳を分けてもらってくる。帰り道、途中で何度も休むほどたくさんの牛乳。
 へとへとのまま食事の支度をして、茶碗に飯を盛る手は男みたいにがさがさだった。

 ミカネエはよく笑い、よく怒った。醤油がないと言っては笑い、味噌もないと言って笑った。そして塩も、米もあとわずかだと呟いて笑い、いつの間にか怒り出した。笑っているうちに怒っていて、後は口を利かなくなる。黙りこくってしまう。
 ある日、米が足りなくて野菜を混ぜたお粥を作りながらミカネエは泣いた。珍しく、怒らずに泣いた。ただ黙って頬を濡らしていた。

  


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