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坂を登りて
【その他 官能小説】

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前編-12

 平石の面影が身近にあって辛かったけれど、小夜子はその店にそれから二年近くいた。別の仕事を探すのも億劫で、慣れた職場の方が楽だと思い、惰性のような毎日であった。寂しくなって行きずりの男と寝たこともある。平石の顔が浮かんできて、申し訳ないよりもそれだけで高ぶってしまった。『平石』に抱かれていたのである。

 ようやく自然な笑顔が出てきたと自分でも感じてきた頃、引きずった想いが吹き飛ぶ出来事が起こった。実家で新しく蕎麦屋を開店したばかりの兄と両親が亡くなったのである。不完全燃焼による一酸化中毒であった。慣れない設備の操作を誤ったものか、消防の検証ではそう言っていた。迷った末に思い切って最新の器具に入れ替えたことがあだになってしまったようだった。自分が費用を出すからと勧めたのは小夜子である。
 ささやかな改装をする話になった時、兄に、軌道に乗ったらお前にも手伝ってほしいと言われた。
「お前が飲み屋をやったらいい」
両親とも同じ考えだと聞かされて、小夜子は嬉しくなって定期を解約したのだ。悔やまれてならなかった。

 失意のうちに初七日を済ませて東京に戻ると翌日から店にでた。憔悴した心はどうにもならなかったが、じっとしている方が苦しかった。
 四十九日に再び帰郷した。父と母の兄弟姉妹はすでに亡くなり、遠い親戚ばかりなのでわざわざ呼ぶことはしなかった。上の兄と二人きりの納骨、墓参りだった。

 ひと月ほどして分厚い封書が届いた。開けてみると中学のクラスメイトたちの手紙であった。全部で十八人。中根先生の手紙も入っていた。みんな小夜子を元気づけようと書いてくれたのだ。目頭が熱くなってしばらく読むことができなかった。

 みんなお通夜に来てくれた。
(ろくな挨拶もしなかった……)
 ゼンリョウの手紙もある。西沢昭ちゃん、井浦正くん、竹川よっちゃん。他の友達も文末にまた会いましょう、そしてこちらに戻ってきたらどうかと締めくくってあった。
 気持ちが動いたのは中根先生の一文である。

『ご両親やお兄さんの供養のためにも君が店を継いだらどうでしょう。簡単にはいかないとは思いますが、地元の仲間も応援してくれるはずですよ。落ち着いたら考えてみてください』
 涙を拭いて真剣に考えた。もしやるとすれば蕎麦屋はできない。居酒屋だ。小さな商いでいい。元気なら齢を取っても出来る。思いを巡らせるうちにつぎつぎと前に向かっていた。
 
 さっそく兄に電話をかけた。家と土地の名義は兄になっている。許可は得なければならない。その折り、兄が近々結婚を考えていることを知った。それを機に東京の郊外に家を買う計画もあるという。だからあちらに戻ることはないし、
「お前の自由にしていい」と、喜んでくれた。
(自分の店が持てる……)
 
 気持ちが固まると行動は早かった。小夜子は経営者に事情を正直に話し、営業に必要なことを教えてほしいと頼み込んだ。辞めると聞いて初めは残念がっていたが、小夜子の熱心な様子を見て、
「よし、小夜ちゃんはよく働いてくれたからな。二ヶ月で仕込んでやる」
いろいろな届け出のことから、板前に指示して料理の手ほどきまでしてくれた。
「わからないことがあったらいつでも電話しろ。がんばれよ」
アルバイトなのに退職金まではずんでくれた。
小夜子は二十六歳。この年東京オリンピックが開催された年でもあった。


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