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栗花晩景
【その他 官能小説】

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風花-7

 恵子に話をすると胸の前で腕を組んで身震いした。
「いやだ。そんな話、初めて聞いた」
怒ったような顔で私を睨む。
「その時話があったらどうした?」
「話って?」
「富田さんと結婚」
「いやよ。あの人、昔からオジサンっぽくて。それに何となくいやらしい感じがしてた」
「だからお義父さんも言わなかったんだろうな。いやな思いをするから」
「そうね。聞いてたらショックかも。避けちゃうわ、きっと」

 そういえば、と恵子が思い出したのは新年会の出来事である。その頃は自宅で開いていたという。
「ちょうど大学卒業の年。その日、あたしの下着がなくなったの。洗濯かごの一番下に入れておいたのに、ないの」
 宴もたけなわの頃、富田は酔った足でふらふらと恵子の部屋にやってきたそうだ。
「ノックもしないでドア開けたの。びっくりしちゃった。いつの間にか大人になったね、なんて言って、なかなか出ていかなくて困ったわ。父が怒った顔で来てくれて。いま思うと下着もあの人かしら。ブラジャーとパンティ……」
気づいたのは翌日で、母に言うと父と何かひそひそ話していた。
「きっとあの人のことだったのね。いやだ、気持ち悪い」
それが理由かどうか、以後自宅での飲み会はなくなったそうだ。
「あの人は酒が入るとちょっとしつこいからな。何もないと思うけど、家には入れるなよ」
「いやだ。来るっていうの?」
「そんなことはしないと思うけど」
私はからかうように含み笑いをしながら、冗談とも本気ともつかない言い方をした。
「チェーンかけておく。顔も見ない」
子供がまとわりついてきて、抱っこをせがんで両手を挙げた。


 二人きりの初めての旅。日程を恵子に任せたのは仕事が忙しい時期に休みをとることに引け目があったからだ。他の社員の手前言い出しずらい。いまさら新婚旅行とも言えない。その点、恵子の立場に依存したほうが気が楽である。両親の了解を取りに行ったついでに小遣いまでもらってきた。
「その分、いい旅館にした。老舗よ」
子供のようにはしゃいで言う。行き先は湯河原温泉だという。

「湯河原とは地味だな」
「地味だなんて、大人の温泉地よ」
観光巡りより二日間ゆっくりしたいのだと甘えた目を向けた。
「初めての旅行よ」
私も気持ちは浮き立つ。
 気になるのは日程のことだ。定休日と組み合わせればいいものを、二日とも営業日である。
「こんな図々しいこと、俺には言えない。社長は何も言わなかった?」
可愛い娘の言うことに何も言うはずはない。
「平気よ。新婚旅行だもん。それに……」
恵子は言葉を切って意味深長な表情を向け、引き出しから小型のノートを持ってきた。基礎体温表と書かれてある。
「その日、たぶん排卵日だと思うの。もう一人欲しい」
これまで彼女の希望で避妊を続けてきたのだ。
「そんなこと考えてたのか」
「もうすぐ三十でしょう。将来を考えたらそろそろかなって」
(恵子……)
思わず心で呼びかけた。
 瞳が潤んでいる。胸を衝くやさしい表情である。母になることを望む女の想いが溢れているようで、その顔は慈愛を含むほどに穏やかであった。

 私の胸に満ちたのは恵子と共に法悦の境地に飛び込む期待感である。
(燃える……)
そう思った。
(母になる前に、女であり、『女』になるものだ……)
生殖を意識した時、動物でいえば体内から沸き上がる発情である。そうであれば、悟性が薄れ、いわば動物的感性が心身を満たすような気がした。
 さらに思いがけない方向から、結果的に私たちを昂揚させることがあった。

 招待状が届いたと母から電話があったのは次の日のことだ。今泉からである。そして信じられないことに数日後、恵子の実家には晴香からの披露宴の案内が送られてきたのだった。私たちが結婚したことは知らせていない。だから実家に届いたのだ。
 二人が結婚するのではなくそれぞれ別の相手なのだが、申し合わせたようなタイミングに私たちは驚き、複雑な想いに囚われた。
「年賀状も出していなかったのにね……」
二通の招待状を前にして、私たちは多くの沈黙を作った。お互いが特別の関係にあった相手である。二人して思い出話で盛り上がるのは難しい。

「不思議な巡り合わせだな……」
私が努めて軽い調子で言ったのは、それぞれの関係をもう過ぎ去った昔のことという意味を改めて含めたつもりだった。
「ほんと。……すっかり忘れてた……」
忘れていたというのは晴香のことなのか、今泉のことか、深くは考えなかった。
「俺も忘れてた」と私も言った。
(それがいい……)
気のせいか恵子の表情が一瞬曇ったように見えて、
「忘れてた……」
もう一度繰り返した。
「どうする?」と恵子が訊いたのは出欠のことだ。
「出席しよう。お祝い事だから」
「そうね。でも、驚くでしょうね。あたしたちのことを知ったら」
「ハガキの端に書いておくか。結婚してますって」
「してますって、変よ」
可笑しそうに笑う恵子を見つめながら、なぜか込み上げるように自分の妻であることが強く意識された。


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