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栗花晩景
【その他 官能小説】

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風化(1)-8

 ホテルの部屋からは湖が一望できた。松原湖というのはこの一帯に点在するいくつかの湖の総称で、目の前に見えるのはその中でも最も大きい湖である。
 だいぶ薄暗くなってきて、湖面は周囲のホテルや別荘の明かりを映して黒光りして輝いている。遠く山の端が残照を背に受けてくっきりと稜線を浮き立たせていた。

 私にとってはかなり高額な宿泊費である。時期もあるのだろうが、足元を見られたのか、食事が別なのに筑波の旅館の倍近い料金である。案内所に方々当たってもらった結果、近辺ではこのホテルの一室しか空きがなかったのである。
(どうしようか……)
ためらったのは料金のことだけではない。部屋がダブルと聞いたからである。他にないのだから同室はやむを得ないとしてもベッドが一つとは迷った。
(和子はどんな顔をするだろう)
妙に勘ぐられてもいやだと思いながら決めなければならなかった。
(俺が椅子か床に寝ればいいことだ)と割り切った。

 ところが和子の反応は拍子抜けするほど無頓着であった。
「空いててよかったね。運がいいわよこの時期。それも一部屋だけなんて」
ダブルベッドと聞いて照れ隠しの素振りも見えない。私は却ってその無神経を怪しんだ。
(男慣れしているとも思えない……)
「二部屋空いてればよかったんだけど……」
「いいわよ。その方が楽しいじゃない」
楽しい……とは。……

「家に電話したらお姉ちゃんにバカって言われちゃった」
「こっちに泊まるって言ったの?」
「うん」
「それで……」
言いかけて私は口を噤んだ。
 気になったのは私といることを家族に告げたのかということだ。状況はわからないにしても男と二人でいるとなれば気を回さないはずはない。だが、改めて訊くのはかえって意識を生むようにも思えて黙っていた。

「買い物行きたいんだけど……」
「買い物?どこへ?」
「ロビーに売店があったわ」
「買ってきてやるよ」
「いいの?下着よ」
「下着か……」
「いやでしょ?泊まるつもりじゃなかったから着替え持ってきてないの」
「でもそんなもの売ってるかな」
「たぶんあると思う。種類は少ないけど」

「二人三脚みたいね」
和子の腰に手を回して歩く様子はたしかにそんな風に見える。
 買い物から戻って私はすぐにシャワーを浴びた。エレベーターの中で汗臭いと言われたからだ。和子は妙な言い方をした。
「臭いけど、いやなにおいでもない」
私の首筋に鼻を近づけてクンクンと嗅いだ。山道を歩きながらずっと嗅いでいたら好きなにおいになってきたという。
「汗臭いのが好きなんておかしいよ」
言いながら、実は私も彼女の体臭に惹かれている感覚を覚えていた。子供の頃に抱きすくめた佳代子の臭い、真夏の夜に吸い込んだミチの体、そして細谷の記憶が甦って重なってきた。

「好きっていうと変だけど、何だか安心するにおい……」
しかし何と言おうと臭いと言われれば気になる。

 変わった女だと思ったが、その後さらに理解し難いことが続いた。
彼女が浴室に入ってしばらくして、突然、どすんと重い音が響いた。
「たすけて!」と声が聞こえた。
何事かと扉の前に行ってノックすると、
「たすけてよ」
「どうしたの」
「起きられないのよ」
やむを得ずドアを開けると泡だらけの和子が湯のない浴槽にすっぽりはまっている。ひっくり返った亀みたいだ。左足が濡れないように浴槽の縁に乗せているので股を開いた格好である。

「石鹸で滑って立てないのよ。起こして」
泡の中に陰毛も見えるし、扁平な胸の乳首ものぞいている。
 目のやり場に困ったが、あまりに無防備でおまけに隠す様子もないので逆に開き直った。
「今日はドジばっかりだな」
「ほんとよ。ついてないわ」
「一緒に入ればよかったかな」
「そうよ。言ってくれればいいのに」
言い返してきた。あながち冗談でもなさそうな口ぶりである。

 シャワーで泡を流すと繁みに被われた『スジ』が見えた。脇に手を入れて立たせる。健康的な肢体が眩しい。
「タオルとって」
「拭いてやろうか」
「うん、拭いて」
「冗談だよ。それくらい自分でやれ」
内心慌てて浴室を出た。

 和子をどう捉えたらいいのだろう。考えてみても私の思惟の範疇を外れていた。天衣無縫というべきか。恋人でもない男にあられもない姿を見られて恥じらうでもない神経は理解を超えている。まるで幼児レベルの精神年齢のようだ。

 思いながら、私の内にはこれまで自覚しなかった心と体の微妙な変化が起こっていた。彼女の裸体を見た時、私は勃起していたのである。和子に感じたのは初めてのことだ。
(中性と思っていたのに……)
それでも女体を求める明確な欲情には至らない何かがあった。感情が突き進む感覚が膨らまない。戸惑うほどのあけすけな言動に無意識に抑制が働いたものか、性的魅力の乏しさか。それは不可解なまま心身の不均衡となって心に漂っていた。

 まさか裸で出てくることはないだろうと見ていると壁を伝いながらバスローブ姿で現れた。
「ありがとう。さっぱりしたわ」
「服は着てないの?」
「どうせ寝るんだもん」
「これから食事だぞ」
「そうか。着替えないとだめか」
どこまでもあっけらかんとしている。
 足の具合を尋ねると、だいぶいいとは言ったが、痛みは今夜がヤマ場だろう。
「明日になればよくなるわ」
私は彼女を見つめながら、もう一泊してもいいと思い始めていた。


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