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栗花晩景
【その他 官能小説】

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春雷(1)-6

(彼女を失いたくない……)
打ち萎れかけた気持ちを必死で引きずっていたのはその想いである。
(授業が終わったら何としてもわけを訊こう)
晴香を裏切ったのは紛れもない事実だ。だから心の痛む後ろめたさと怖さはある。でも訊かなければならない。もし弥生のことが原因だとしたら、どんなことをしても謝ろう。いや、だめだ。それを認めたら収拾がつかない。
(否定しよう……)
断固、押し通す。それしかない。ドライブはしたが家まで送っただけだと言おう。車の練習をしていて偶然出会ったのだ。弥生以外に知る者はいない。しらを切るしか方法はない。認めてしまったら消えることのないシコリが残るだけだ。……卑怯だと思いながら縋る想いが突っ走った。

 中庭に流れてくる学生の中に晴香の姿を見つけた時、私は忘れていた切ないときめきに翻弄されていた。初めて彼女を抱いたあの夜、身を焦がして肉体の欲求に煩悶していた頃の気持ちだ。
(やっぱり晴香が好きだ)
その想いがいまさらのように募ってきて、私は惹きよせられるように彼女に向かっていった。

 友達と連れ立って来る晴香の笑顔は花のように美しい。その輝く眼差しが私に気づいたとたん、冷やかにつり上がった。その目の鋭さに射られた時、頭で組み立てていた修復の手立ては雲散霧消した。そして気がつくと彼女の前に土下座をしていた。何も言わず、手をつき、頭を地べたに擦りつけていた。考えもしなかった行動であった。

 周りの好奇の目をひしひしと感じた。言葉が出ない。ひたすら黙っていることしか出来なかった。
「ねえ……」と言ったのは連れの友達の声である。晴香に何か促したのか。その直後、
「やめてください!」
抑えながらも引き攣った叫びであった。
 すぐに走り出した靴音は晴香であろう。友達が後を追い、私は降り注ぐざわめきを痛く受け止めながらしばらく動けなかった。

 学校を出て目的もなくさまよっているうちに一駅歩いていた。喫茶店に身を入れ、二時間近くを過ごした。あれこれ考えているようで速い流れに追いつけない。
 時間が経つにつれ、醜態を見せてしまった後悔とともに、晴香の態度への不満が沸いてきた。
 あの様子では間違いなく弥生との関係を知ったのだろう。それ以外に考えられない。どこから伝わったのか分からないが、それにしても、
(あそこまで頑なにならなくてもいいだろうに……)
自分の理不尽さを承知していながら侮蔑された不快感を拭えなかった。

 とにかく、時間が必要だ。怒りに燃えている時は下手に動けば却ってこじれてしまう。向こうから何か言ってくるまで待っていたほうがいいかもしれない。
 自分は晴香の初めての男なのだ。その関係は理屈では計れない深いものがあるはずだ。きっと彼女のほうから接触してくる。その時に心から詫びれば何とかなる。
 私はここ数日の煩悶と徒労の鬱憤を晴香になすりつけて堪えていた。

 そして差し迫った明日の問題がある。今からではキャンセル料が半額かかってしまう。苛立ちの中で私は弥生を連れ出すことを考えた。
(あいつなら来る……来させなければ……)
やり場のない気持ちを弥生の肉体にぶつけようとしているのはわかっている。
(いろいろなことをしてやろう……)
一種サディスティックな感情が満ち満ちて吠えるように勃起した。

 弥生はさすがに驚いて頓狂な声で何度も聞き返した。
「明日?一泊?ほんと?ほんとなの?」
「そうだよ。二人のために予約したんだ」
私は言うことだけ言うと余計な言葉は挟まずに沈黙を押しつけて返事を待った。もし行かれないと言ったらこれっきりにしようと突っぱねてやるつもりでいた。
「どこに行くの?」
「筑波」
「えー、また?」
「厭ならいいよ」
「厭じゃないけど、急だから」
「急に行きたくなったんだ」
つっけんどんに言い放った。
「せっかく予約したのに」
弥生の言葉が途切れたのはわずかな時間だった。
「わかった。行く。ごめんね、行く」
声が小さくなったのは家族を気にしてのことかもしれない。
 時間と待ち合わせ場所を一方的に伝えて電話を切った。大きく溜息をついた。楽しい気分とは程遠い心であった。


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