『SWING UP!!』第16話-20
「………」
誠治と葵は、他の面々が一塁側、三塁側、と、分かれて陣取りする中で、バックネット裏の最上階を選んで座っていた。バックネット裏は、試合を最も公平に俯瞰できる場所であり、最上階を選んだのは、他の観客の視線を背後に浴びずに済むからである。
葵が、これから“戦う”ために最適な環境を、誠治は選んだのだ。
「………」
葵の凝視する先で、双葉大学のエース・草薙大和が躍動している。彼女の視線が、執拗に、彼に注がれていたのは、誠治も想像していたとおりだった。
ハァ、ハァ、ハァ…
時折思い出したように息づかいが荒くなってくるのは、強いストレスを感じている時に顕れる“呑気症”の兆候で、それがひどくなると“パニック症候群”のひとつの症状である“過呼吸”になる。
しかし、葵はすんでのところで思いついたように頭を何度も振り、深呼吸をして心を落ち着かせてから、視線を再びグラウンドに戻していた。
（葵は、己に克とうとしている……）
それが伴わず、もし葵がこの場で“パニック症候群”を起こしたとしても、全力で彼女を守ることを誠治は決意していた。
「うっ……」
「！」
眼下の試合が中盤に差し掛かったところで、不意に、葵が口元を押さえた。喉がひどく鳴り、葵が何かを我慢していることは明白である。
「……ふ、うっ……」
涙がポロポロと零れてくる。それは、葵の中にある消化しきれない感情が、形になってあふれてきたものだろう。
「葵」
「………だ、大丈夫」
しかし、葵は呼吸を整えると、口元に当てていた手を離した。荒い呼吸は収まっていないが、これまでならそのまま発症していた“パニック症候群”を抑えきったのは、意志の力が優ったからであろうか。
（葵は、本当の意味で、自分と向き合っているんだ）
前期の頃は、マウンド上にいる草薙大和を“見下す”ことで、己の中にある葛藤をある意味“誤魔化そう”としていた。相手を“叩き潰す”ことに集中していたから、これほど感情を揺さぶられるようなことはなかったのだろう。
だが、それではいけないと察したのか、今日の葵は、己の心の中にあるものを全て曝け出して、草薙大和の姿を見ている。そうして溢れ出てくる負の感情を、自ら受け止めて、消化しようとしているのだ。
「ぐっ……！」
試合が終盤を迎え、いよいよ“正念場”というところで、葵の呼吸が堰を切ったように荒くなり、口元をきつく抑え込んだ。
（いけない！）
誠治は、予測していた事態の発露を想起して、葵の身体の正面に周り、手にしていたビニール袋を広げて、葵の口元を覆い隠した。
「う、ぶっ、う、うぼげええぇぇぇぇぇっ！」
蛙が潰れたような呼気音を挙げ、葵が激しく嘔吐した。ここが観客も疎らな“最上段”でなければ、その姿は大勢に見られていただろう。誠治の見込みは、正しかった。
「お、おえっ、う、うげぇっ、おえぇぇぇ……」
胃袋を何度も反転させて、ほとんど水ばかりの内容物を、誠治が手にするビニール袋の中に吐き戻す葵。
「はぁ、はぁ、う、はぁ、はぁっ……」
やがて吐き戻しの呼吸は収まり、口の端からポタポタと名残をこぼしながら、葵は目を見開いたまま息を荒げていた。