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【ミステリー その他小説】

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独白-1

 かつて炭坑で栄えた九州のほぼ真ん中の有明海に面した町で「幸」こと日暮恵子は生まれた。北九州の各町が合併して「北九州市」が誕生するまで、この町は福岡市に告ぐ九州第二位の人口を誇る大きな町であった。地底の底から掘り出される黒いダイヤ、石炭が町を大いに潤し、人を呼び寄せていた。

 恵子が生まれる少し前、この町を厚い黒雲が覆う。戦後最大の労働争議が此の町に沸き起こったのである。この町は二分、いや、四分五裂、それこそ町そのものがズタズタに分裂したのだ。

 そんな時、恵子はこの町に生まれた。父は採炭夫であった。

 傷ついた町は恵子の成長と共にその傷を癒していくかに見えた。

 恵子の三歳の誕生日を迎える年の春、その傷が完全に癒えぬままこの町は致命的なアクシデントに見舞われたのである。

 これもまた戦後最大の炭鉱災害である粉塵爆発が地下を走る坑道を襲った。爆発により多くの死者が出た。かろうじて坑口から救い出されたとしてもその多くの採炭夫たちが重篤な一酸化炭素中毒に冒されていた。深刻な後遺症が採炭夫達に、そしてこの町に残ったのである。

 世の中は石炭から石油へと舵を切り始めても居た。財閥系の会社はいとも簡単にこの日本最大の炭鉱を切り捨てたのである。

 労働争議も炭塵爆発もかろうじて切り抜けてきた恵子の父はこの閉山によってその命(めい)を絶たれてしまったのである。十五の歳から地下の坑道を這いずり回ってきた恵子の父には、石炭を掘るしか生きる術を知らなかったのだ。他の炭鉱に移ろうにもこの国の多くの炭鉱が次々と閉山を決めていた。

 酒、女、博打と恵子の父は崩れて行った。いや、恵子の父だけでなく、恵子の家庭が、そしてこの町そのものが壊れていったのだ。




 炭坑が閉山した後の恵子の家は他の多くの炭坑労働者の家庭がそうであったように、暗く夫婦の争いの絶えない家庭であったという

 父と母の争いの絶えない家庭で恵子は成長し、就職、そして始めて身体を重ねたの男と壊れてしまったこの家から逃げるようにしてその男と結婚した。

 貧しくとも穏やかな、争いの無い家庭。それが恵子の望みであった。

 しかしこの町の退廃は、恵子を逃がしてはくれなかった。

 おとなしいだけが取り柄のような恵子の夫がこの町に蔓延する退廃と絶望の細菌に感染してしまったのである。浴びるように酒を飲み、博打で借金をこしらえ、そして女をこしらえた。恵子の父親と全く同じである。逃げてきた恵子を同じ悪魔が追いかけてきた。

 二人目の子供が宿った頃、夫に女が出来た。

 ほとんど家に寄りつかなくなった夫を待ち、不安な日々を送る恵子はその心の揺らぎからか流産したのである。お腹の子供を失くすと同時に二度と子供の産めない体になってしまった。

 三ヶ月の入院の後、退院した恵子を待っていたのはやせ衰え、そしてまるで息をしていないかのようなわが子の姿。病院に運ぶまもなく子供は息をひきとった。恵子の夫はわが子を放置したまま女と遊びほうけていたのである。

 病み上がりの体で夫と女を追探し出し、かつて幸せな家庭の食卓を演出していた出刃を夫その女の胸に突き立てていた。恵子も無事には済まなかった。夫のそのこぶしが恵子の上下の前歯を打ち砕いていた。



 二人の切り刻まれたむくろが発見された頃、恵子は男が暮らしていた遠くの町の公園にたどり着いたという。そう言えばあのころテレビのワイドショウはこぞってこの残忍な事件を取り上げ、雑誌や新聞が姿をくらませた夫殺しの若い女房の行方をあれこれと詮索していたことを男はかすかに思い出した。

 疲れ果て、夫とその愛人を殺してしまった罪の恐怖に怯え、震えていた恵子を、何もいわずに迎えてくれたのは、あの公園脇の段ボールハウスで暮らしていた初老の女ホームレス、其れが「幸」という名の女であった。

 半年の間、ホームレスとして幸と一緒に暮らした。夫との争いの時無くした数本の前歯、追われる者の恐怖、そしてなれないホームレスとしての暮らしでやせ細り、一気に姿を現した白髪が恵子を全くの別人にしていた。

 幸は恵子にまだ自分が一人暮らしながら充分に幸せだった頃に取り寄せた戸籍謄本を見せ、自分の生い立ちを語ってくれたという。

 病気がちだった幸という名の女が冬の寒さに耐えきれず死んだ朝、幸がいつも取り出しては眺めていた戸籍謄本の入った巾着袋をもって段ボールハウスを後にした。たどり着いた駅の公衆電話から幸の死を警察に連絡し、駅舎の暗がりにその身を潜ませ、そしてその日の夕暮れにあの駅前で男と出会ったのである。

 とっさに差し出した福島生まれの幸の戸籍謄本では、九州訛の強い恵子はしゃべることの出来ない女を演ずるしかなかったのだ。以来十五年の間、恵子は幸として人前では一言も発することない女として生きてきたのだ。

 十五歳も年上の女を演じるために、白髪混じりの髪を染めることなく、欠けた前歯を入れることもしなかった。ただ恵子の女だけは幸を演ずることが出来ず、本当の年齢を男に界間見せていたのだ。


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