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惚れ薬
【その他 官能小説】

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出会い-2

 「いい飲みっぷりだね」
「何日ぶりかな…」
爺さんは喉を鳴らしてカップをみつめた。
 (残りの一本もあげて帰るか…)
煙草を投げ捨ててバッグを肩にかけると、
「見たところサラリーマンのようだが、結婚はしているのかね」
突然の質問に俺は苦笑した。
「結婚してたらこんな所で飲んでないよ」
やや投げやりに答えた。
「決まった相手もいないのかね」
ずけずけ言う爺さんだ。
「いないよ。面白くないことばっかりだよ」
爺さんの目を見ると妙な真剣さがある。しょぼくれているのに眼差しに輝きが感じられた。
「世の中、なかなかうまくいかないよ、まったく」
俺は浮かせかけた腰をおろし、訊かれもしないのに日頃の不満を思いつくまま話し始めていた。
 会社のこと、外見や金ばかりで男を決める女、そして世の中の理不尽なことなど、一方的に喋った。自己中心的なのはわかっていたが、とにかく溜まっていたものをすべて吐きだしてしまいたくなって止まらなかった。たとえホームレスだろうと、聞いてくれる相手がいることで話すうちに熱くなってきて、歪んだ考えを爺さんにぶつけていった。爺さんは酒に口もつけずに俺をみつめていた。
 
 話が途切れると爺さんはようやく酒に口をつけ、カップをベンチに置いた。そして咳ばらいをすると、カバンからガラスの小瓶を取り出した。
「あんたに決めた。これをあんたにあげる」
「何、それ…」
「まあ、媚薬というか、分りやすくいえば、惚れ薬」
「?……」  
爺さんは洟をすすり、眉根に少し皺を寄せて、声を落として話し出した。
 俺はベンチに凭れながら、その突拍子もない話を鼻で嗤って聞いていたが、次第に漂うような不思議な心地になっていった。それは話に惹き込まれたというより、自らその中に入りこんで妄想をめぐらせている感じだった。

 爺さんはある大学の薬学部の教授だったという。
「自分でいうのも何だが、小学校から大学まで常にトップだった」
家もそこそこ裕福で、エリートコースを歩んだことになる。特に化学が好きだった。
 一流の道を進んだことは事実だが、それは出世欲とは無関係で、ただ勉強が好きだったからだ。勉強していると何もかも忘れることができた。女に惑わされることもなかった。性欲は人並みにあったが、生理現象と割りきって自分で処理した。女とつきあう時間があったら本を読んでいたいと本気で思ったという。
(そんなばかな…)
時として思考力さえ麻痺してしまうのが性欲である。簡単に処理して済むのなら苦労はない。
「四十二の時と、その翌年ーー」
両親が相次いで死んだ。ひとりぼっちになって、初めて自分の半生と立場を振り返った。そしてそれまで感じたことにない変化が心に起こった。
「寂しくなったんだ…」
爺さんは遠くを見るように目を細めて溜息をついた。
「周りをみたら誰もいない。友達と呼べる者もいない。だがそれは自分が歩いてきた人生の結果だ。誰のせいでもない…」
 虚しさに落ち込んだ心を突如として捉えたのは、毎日のように研究室で一緒だった一人の助手であった。
 思いもよらない感情の揺らめきがときめきとなった。
「いままでそばにいたことが信じられなかった。美しいと思った。胸元の肌の色、つややかな唇。女とはこんなにきれいなものだったのか。それまで特定の女を意識して見たことがなかったから、ショックだった…」
「一度も、意識しなかった…ひょっとして…」
「女を知らんのだよ」
「ほんとうに…」
(四十二まで……)
俺は呆気にとられて爺さんの落ち窪んだ目を覗き込んだ。

 「生まれて初めて恋心というものに苦しんだ…そして…」
悩んだ末、耐えきれずに告白した。全身を燃やしながら、想いを込めて胸の内を伝えた。
「女はなんて言ったと思う?」
「振られたのか?」
結果はそうだが、女は何も言わなかった。驚いた顔を見せた後に、笑ったそうだ。
「きっぱり拒絶するならまだしも、噴き出して笑ったんだ…」
「それは、ちょっとひどいな」
「膝が震えるほど屈辱を感じた。しかし、無理もないと思った。身なりなど気にかけたこともない。改めて鏡で自分を見ると二十も老けて見えた」
 だが、そう考えたものの、蔑まれたことを忘れ去ることは出来なかった。日に日に怒りがふつふつと沸いてきてどうしようもない。それまで勉強、研究によってあらゆる劣等意識を跳ねのけて均衡を保っていたものが脆くも崩れ去ってしまった。
 やがて怨念が邪な発想を生み、決意はすぐ固まった。それから研究と試行錯誤を繰り返し、
「二十年かかった。かかったが、出来た」
爺さんはベンチに置いた小瓶を取って二、三度振り、また二人の間に置いた。
 そのことに沒頭したことで本来の研究がおろそかになり、講義にも身が入らず、大学も辞めざるをえなくなった。その上借金がかさんで、親から相続した家も土地も人手に渡ってしまった。まさに人生を賭けた薬である。
 俺はしばらく言葉が出なかった。
「そういうことでな。実は今日、初めて人に話したよ」
「惚れ薬…」
「そう…」
「というと、どうなるの?」
「相手が惚れてくる」
精力剤ならわかるが、そんなものが…。
「効くのかい?」
爺さんの目が鋭く光った。


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