第3章 破滅-5
2、謎
私は考える力も失せて、ただの生ける骸になっていたある日、サキが一人の男性を伴って帰ってきました。サキは私を見ると、一週間も経ずしてあまりの変わりように驚き、泣きながら私の髪を整え衣服を着替えさせてその男性に引き合わせました。
彼は、父の親友、橘鴻作だと名乗り、<覚えているかい?>と私を見上げました。上品な出で立ちで、髭に少し白髪が交じり始めていました。私に男性に対する嫌悪感を抱かせなかったのは、父の親友というだけではない、何でもいいから縋りたい気持ちに応えるような温かい声であり、眼鏡の奥に光る大きく穏やか目でした。
「もう何年になるだろう。10……いや15年……にもなるかな。もうダッコしてあげることもできなくなっちゃったね。あの頃は可愛くてね、オジちゃまオジちゃまダッコしてってよくせがまれたものだけど、今、言ってくれないか。言われても無理か……」
そんな静かな話しぶりが、私の荒んでしまった胸に浸みていきました。
父……私の肉親。母が信じられなくなっていた私に、涸れていたはずの涙を誘う言葉でした。
「分かっている、何も言わなくていい。サキさんがね、久しぶりに尋ねてきてね。いや……実を言うとね、珠子さんの手前おおっぴらではなく、サキさんとはタマに合っていたんだよ。君は知らなくて当然だけど、君のお父さんと一緒にね。そして、君のことはサキさんからいろいろと聞いていてね、恭孝……君のお父さんと私は君の成長を喜んでいたんだよ」
「……恭孝……」
「うむ。こんな時に言わなくても、と思うかも知れないが、恭孝はもう亡くなっちゃってるけど」
「パパが……?」
「うム……死んじゃったよアイツ。誰にも知らせるな、ってことだったから、まあ、恭孝が望むように誰にも知らせなかった……とはいえね翔子、君にとってはさほど懐かしい感じはしないだろう。それが当たり前だよ。3才じゃね。懐かしいとか、愛していたと言う方がウソだよ。しかし恭孝はちがうよ。君が全てだったんだよ。君は、父親にはもの凄く愛されていたんだよ。珠子さんは母親だ。しかし、恭孝の君に対する愛はその母以上の愛情だった。会うといつも翔子が、翔子が、ばかりでね。もっと他にする話がないのかと苛つくほどだったよ。まあそのおかげで、結婚してもいない私には翔子という娘がいる、と思えるほど、君に対する恭孝の愛が私に乗り移ってしまってね、まあ、サキさんの話を聞いて、矢も盾もたまらずやってきた、というわけさ」
「…………」
「サキさんは言っていたね。ねえサキさん。お嬢様はどこかの国のプリンセスのように美しくおなりだから、驚かないでください……てね。いやあ、今白状するけれど、実はね、私は密かに何回も君を見ているんだよ。恭孝が夢枕に立つと、君を密かに見にいくんだ。君のストーカーだよ。そうそう、サキさんからお嬢様があの名門女子大に合格しました、って連絡をもらってね。うれしかったねえ。二人で祝杯を挙げたよ。」
「……サキと……?」
「あ、いや、恭孝の写真とさ。……いけないねえ。あの頃の美しさがまるでない。お世辞にも綺麗とはいえない、が綺麗だ。しかし幽霊みたいだ。だけど綺麗な幽霊だ。と言うのも変だね……まあ、綺麗、汚いなんてあまり意味はないが。そりゃあ女性は綺麗に越したことはないとは思うが、翔子は翔子だからね。恭孝だって私だって、君が例え五体満足でなくったって、可愛いと思う気持ちは変わらないだろうよ。ただ、いつ頃だったかな……翔子が小学生のころかなあ……君は自分の美しさを知らず、いつも俯いて歩いていたね。そんな寂しそうな君を思い切り抱きしめて<綺麗だよ>と言ってやりたい衝動に駆られたことがあったねえ。しかし、やがて自分の美しさに気付いたようだった。自意識も行きすぎると嫌味だが、その反対はもっといけない。美しさを認識し出した君を見て、恭孝と共に喜んだね。あの美しさは、今は背後に隠れているだけなんだろうけど。なにが君をそうさせたかは知らないが、泣くだけ泣いたって顔をしているね。恭孝が見たら嘆くぞ」
「…………」
「これは、説教ではないよ。そう思って聞いて欲しいんだが……。例えば、君が死ぬほど辛い目にあった……としよう。そして、死んだ方が楽だと思ったりするかも知れない。しかし、死ぬには、自分を納得させられる死でなくてはならない、と私は思う。自分の死をなぜそのように納得できたか。それを知るには、それだけの感性を養わなければならない。自分の限られたキャパシティーだけで考えることが全てだと思ってはいけない。フランス文学を学ぶそうだね。私は、フランス文学は詳しくないが、ジードにしろモリエールにしろ、学び方を間違えると感性も狂う。世界の文学は、君が考えることくらいはもうとっくに結論を出している。自分が苦しいのは、その苦しみの本質が分かっていないからなんだよ。つまり、自分に甘えていると思った方が早い。一時は泣くだろうが、泣いてどうなるものでもない。いたずらに感性を鈍らせるだけだからね。ああ、これは君のことを言っているのではないが、君のその顔を見ていると、ついしゃべってしまいたくなったんだ……。一般論としてね」
「はい……仰ることはわかります」