第３章-1
“さーちゃん”とは、幼い頃、創がラ行をうまく発音出来なかった時から定着した沙良への愛称だ。大学に上がって沙良の創への呼び名は“創ちゃん”から“創くん”に昇格したが、創は沙良の呼び名を変えなかった。呼び名を変えるのは何につけ照れるものだった。
創の父親が切り盛りしていた医院を沙良が継いで間もなく、沙良の両親、つまり創の祖父母まで亡くなると、沙良は創にとって唯一の肉親となってしまった。実際、創の生活費も学費もずっと沙良が出している。私立医大の学費は尋常ならざる負担だ。それでも沙良は厭うこともなく『一族代々の家業を継いでくれるなんて嬉しい』と大喜びで創の学費を捻出し続けた。その負担を少しでも軽くしたい一心で、創は大学生になってからスカウトに請われるままモデルのバイトを続けている。医大生のバイトと言えば、医大志望の高校生の家庭教師が定石だが、モデルの方が格段に率が好く、時間も都合をつけやすい。始めた時は時給にして2万円だったのが、ファッション誌の巻頭を飾る今では時給換算で5万を超えるようになっている。
来年から始まるインターンは薄給且つ激務である。沙良に少しでも恩返ししたい―。今やモデル稼業は、創にとって欠くべからざる副業になっていた。
創を見送ってから沙良は医院を開けるまでの1時間、自室に籠った。
一人になるなり、途端に沙良は暗い顔になった。
例の件をどうしたら調べられるのだろう。サイトに何か痕跡でも残っているのか。だがどこをどう探ればいいのか沙良には見当もつかない。へたに動けば夫の紘一郎にも塁が及ばないとも限らない。もちろん、張本人が夫である可能性は否めないのだが…。
沙良には友人が少ない。ましてやこんな内容を相談できる人間など皆無だ。
いっそ、投稿しなければそれでいいのではないのか。放っておけばそれでいいのでは…。
あの動画で映っているのが沙良と紘一郎だとは到底判るはずもない。それで、いいのではないのか。勝手に設定されていたハンドルネームは『K.S』なのだし…。だが―。メールにはしっかり本名が記載されていた。登録には住所も電話番号も、口座の詳細さえ記されている。これが外部に漏れれば逃げも隠れも出来ないではないか。そこまで考えが及ぶと、沙良は頭を抱えてしまった。
医院の開業時刻が迫っている。沙良は両頬をぱんぱんと叩いて自らを鼓舞すると、離れにある医院に向った。
『はい。そのまま診察台に乗って。足はここね。…じゃ動かしますよ？』下半身裸の患者を乗せたキャスター付きの診察台をカーテンのある暗室に移動させる。下半身のみカーテンにくぐらせると、沙良は暗室に移動して診察を始める。この患者は性病検査に来ていた。
『ちょっとチクっとしますよー』そういってピンセットで膣内の粘膜の一部をこそげとる。
患者がひくりと小さく反応する。沙良それを用意した容器に入れて看護師に渡すとまた患者の上半身のある明るい診察室に戻ってきた。
『今日はこれで終わりです。一週間後には結果が出てますので、お名前と生年月日を仰って電話で結果をお聞きください。治療の必要があれば、その時にうちの看護師にアポをとってください』そう明るくにこやかに説明すると、一礼した患者を送り出した。
『はい、次の方どうぞ―』
沙良の病院は完全なる女所帯だ。患者も女、看護師も全員女。婦人科医院にとってはそれは重要なポイントだったのだろう。創一から沙良が継いでから医院の経営は格段に良くなった。また、沙良の美貌を聞きつけたマスコミが婦人科関連のトピックに好んで彼女を出すようになると、患者は更に増え、医院の収支は完全に黒字化した。
美しくさばさばした女医―。それが世間の沙良へのイメージだ。しかも甥すら現役の医大生で人気モデルと言うことが発覚してからは、話題性にも患者にも全く事欠かなくなっていた。
一日の診療を終え、ふぅっと沙良はため息を吐いた。どうしよう。興信所…？探偵事務所…？IT関係に詳しいところを探すか…。藁にもすがりつきたい気持ちで沙良は検索を始めた。すると、PCからメール着信の通知音が鳴る。それを開いて沙良は更に驚愕した。