海螢(芙美子の場合)-5
区役所の芝生広場にあるベンチで、昼休みにお弁当を広げる。眩しい春の陽射しが心地よかった。
春のさわやかな風が頬を撫でるように吹いてくる。
手元には兄夫婦が勧めるお見合いの写真があった。兄の大学時代の後輩で小児科医だった。はに
かんだその男の優しい感じの童顔に、思わず自分の心の中に笑みがこぼれるのがわかった。
迷っていた…。
結婚という言葉にこだわっている自分がいるのは確かだった。でも、なぜか母に似ていると言わ
れることが、自分の中にずっと残り続けていた。あのとき艶めかしい母の姿態が、自分となぜか
重なる。
…フミ、美味しいイタリアンレストランが新しくできたの…今夜行かない…
終業時間に、ユミコが芙美子の仕事場に電話をしてくる。その店は下町の路地裏にある小さな
レストランだった。
トマト煮のシーフードパスタをテーブルに持ってきたコック帽と白い半袖のコックコートを
着た男…
十数年ぶりに出会ったタツオさんだった。
どこかに秘めたものをもっているような憂いに充ちた黒い瞳は、昔と変わらなかった。懐かしさ
とどこかに忘れかけていた甘酸っぱさが心の中にふわりと溢れていく。
タツオさんでしょう…
芙美子の囁くような小さな声の問いかけに、驚いたようにタツオさんの頬が強ばる。
…フミ、知ってるの…ここのシェフ…
ユミコが興味深げに芙美子の顔を覗き込む。
…えっ、ちょっとだけね…
かすかに桜色に赤らんだ芙美子の頬に、ユミコは気がついただろうか…。
芙美子の通勤途中にある公園には、都会のビル街の中にあるというのに、鬱蒼とした樹木に囲ま
れているためか、都会の喧騒がまったく聞こえないくらい静けさが漂っている。芙美子は早朝の
誰もいない澄みきった空気の中で、ここの並木道を歩くのが好きだった。
あれは、タツオさんと会ってから、一週間後だったか…兄夫婦が出かけた実家で、たまたま母の
遺品を整理しているときだった。