『花』-4
「誰の言葉?」
「ドニ・ド・ルージュモン」
「知らないな」
「でしょうね」
「今の言葉が、質問の答え?」
「そういうことになるかもしれない」
そこから先が思い浮かばない。彼女の回答に対する返しが、僕のマニュアルに無い。ただ、今の自分の感情だけは明確に表現できる。二文字くらいで簡単に。
「ねえイツキ」
彼女が僕の目を見る。僕も彼女の目を見る。視線は絡まり、編み合わされ、結びつき、離れなくなる。
「私のこと、好きだった?」
涙の役割は眼球を守るためだったはずだ。それは物理的なもの以外をも外敵として認識する性能を備えているのだろう。今、彼女の目を見るとそう思う。
「いいや」
僕はきっぱりと言う。本当のことじゃない。でも嘘じゃない。言葉が少し足りないだけだ。
「ありがとう」
僕が隠した言葉を彼女は簡単に見抜く。それが彼女を辛くさせていることを、僕はまばたきの回数で悟る。
『……
額に触れたのは、間違いなく優子の唇だった、弘樹は起きたことを感知はしたが、うまく認識できてはいない。
その唇が、今度は弘樹の唇のほうへ空間を滑るように音も無く移動してくる。どんなにゆっくりとした動きであっても、熟練の武術家の突きは素人には避けることが出来ないと言う。何故か全く動くことのできない体と裏腹に弘樹は、頭では昔漫画で読んだそんな知識を能天気に思い出していた。唇が触れ合い、その奥から熱を持った舌が弘樹の唇を優しく開こうとした時になり、ようやく弘樹の体の自由は取り戻され、優子の肩を突き飛ばした。一つの動作をするためだけには長すぎる硬直時間を取りすぎたせいか、両手には思いのほか力が入り、優子の体は勢い良く後方へ投げ出された。
「やっ」
ゴ、という鈍い音と、優子の、小動物の鳴き声ような高い声が同時に響く。壁に後頭部を打ったようだ。
「どういう……」
弘樹の口から発せられた言葉は、ただの発音でしかなく、台詞にはならない。何かを言おうとするが、自分が何を言いたいのかが分からない。自分が何を思っているのかがうまく把握できない。
優子に合うのは今日で5回目になる。
弘樹の中で優子の第一印象は、まさに花屋の娘、だった。まるで良く出来た台本のなかから抜け出してきたみたいだ。今にも「カット!」という声が聞こえてきそうだと思った。
「いやー、よかったよ今の演技、すごく自然だった。」
と監督が彼女に声をかける。構成作家も満足そうな顔をしている。俺が撮りたかったのはこういうものだったんだ、と心の中でカメラマンが頷く。
それくらいに完璧に、意味内容としての「花屋の娘」という言葉と彼女の姿は一致しているように思えた。だから弘樹は優子に対しての警戒心は初対面からほとんど持たずにいられた。佳奈と親しげに話していたのも好感を持つ要因の一つだ。優子と佳奈の会話のリズムが、自分と佳奈の会話のリズムに似ていると思ったのだ。それを見て弘樹は優子に親近感を抱いた。この人は自分と同じ種類の人間なのかもしれないな。そんな風に、人をはじめてみた時に思うことが稀にある。
優子は実に親身に弘樹の右手に咲いた花について相談に乗ってくれた。
「でもこの花、とっても綺麗」
佳奈と一緒に花屋を訪ねて行き、その時に、できるかぎり調べてみると言われ、もう一度佳奈と一緒に会いに行った。花のことは結局何も分からなかった。でも優子はそう言って微笑んだ。
花のことを、対処するべき問題としてではなく、純粋にそこにある愛でるべきものとして考えてくれていることが、弘樹は嬉しかった。
だから、花を見たい、という理由で優子が佳奈を介さずに弘樹に会いに来ることがあっても弘樹は喜んでそれに応じた。