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『花』
【その他 恋愛小説】

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『花』-1

『……

 ある日、弘樹は自分の左の手の甲に花が咲いているのに気付いた。
 それは比喩的な意味でも暗示的な意味でもなく、実際に。実体を持つ本物の花が、左手の甲の中心辺りに泰然と座している。弘樹は特別植物の知識に明るいわけではない。バラと牡丹の区別が辛うじて付く程度だ。弘樹には、その花が一体何という名の花なのか、どこの原産の花なのか、手の甲に生えることでどのような影響を与えるものなのか、さっぱり分からない。
 まずはじっくりと観察してみることにした。
 花弁の色は柔らかな朱色。その色を、血液を水で溶かして薄めたような色、と弘樹は思う。花弁の一つひとつは細長く、数が多い。弘樹の知っている花の中ではコスモスがそれに近い形をしている。花弁部分の直径は10センチほどだ。葉は無く、5ミリほどの短い茎が手の甲の、人差し指の延長上の骨と中指のそれの間の谷になっている部分から突き出ている。皮膚と茎の境目の、肌色から深い緑色へのグラデーションは、まるでそれが生まれつき当然のものとでも言うような自然さで、試しに手を振って揺らしても基盤は安定を失わない。根が、深く広く手の中に走っている様を弘樹は想像し、恐る恐る手を握ったり開いたりしてみる。しかし手の動く感触に違和感はまるでなく、痛みなども無い。とりあえず、即時的な害は無いようだ。心配なのは毒などの存在だ。しかし今のところ体には何も異常は無い。とりあえず弘樹は、この花を無害なものと判断した。そして不思議なことに、この花を見ていると弘樹の心は妙に落ち着いた。穏やかで、柔らかい気分になる。手の甲に花が
咲いていることなんかは大して問題でもないだろうという、大らかな気分になる。
 弘樹はだんだんこの花を気に入り始めていた。
……』


「イツキ」
 名前を呼ばれたので、目線を上げてそちらを見る。
「何を読んでるの?」
 彼女はそう言い、でも身体の態度からは、台詞ほどの興味は伺えない。興味は無いけれど、とりあえず聞いているだけかもしれない。形式として。それとも、興味はあるけど、それを態度に表していないだけかもしれない。彼女のこういうところを僕は気に入っている。感情を悟らせない部分。壁の存在を感じる。彼女は自分の周りに、きちんとした、自分の空間を持っている。独立している、ということだ。だから僕は彼女に、いや、自分に対して何も警戒を払う必要が無く、彼女と一緒に過ごすことができる。
「小説だよ」
 僕は手に持ったA4のコピー紙の束を軽く持ち上げて言う。
「小説?」
 怪訝な顔をされる。それもそうだ。僕が持っているのはハードカバーでも文庫でも新書でもない。
「妹が書いたものなんだ。趣味でね。時々読ませてもらってる。これはこの間妹の部屋に行った時についでに貰ってきたんだ。」
「妹なんて居たのね」
「言ったこと無かったかな」
「たぶんね」
 たぶんね。それは彼女の僕に対するスタンスを端的に表す響きをしている。その簡潔で頼りない響き。
「二人居る。これを書いたのは下の妹」
「そう。それ、面白いの?」
「素人仕事にしては、という但し書きを付ければね」
 妹の香澄が、自分の書いた小説を僕に読ませてくれるのは久しぶりだ。
 中学生くらいのころ、彼女は日常的に小説を書いていたし、僕はその殆どを読んでいた。表現は子供にしては良く練られていたし、発想や着眼がユニークで良かった。光り輝く才能がある、とは思わなかったが、少なくとも、品のいいセンスと優しい想像力があると思った。「作家になるといい」というようなことを妹に言ったこともある。半分は冗談だったが、不可能ではないことだろうと思った。初めこそ、妹を喜ばすつもりで読んでやっていたというのが正しいが、段々とそれは自分自身の楽しみになっていた。
 しかし高校入学を境に徐々に小説を書くペースは落ちて行った。女子高生の興味は、お洒落や恋愛のほうに傾いたみたいだった。高校時代、彼女は二度失恋したが、その度に書かれた小説は、内容がありふれていて、奥深さも無い薄っぺらいものだった。ありふれた幻想としての恋愛と、既存の型どおりの心の傷口について書かれたものでしかなかった。そういう例もあったが、時折目を見張るような小説を書き上げることもまだその時にはあった。


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