『花』-2
大学に進学すると、もう小説を書くことなどほとんど無くなったようだった。フィクションの作り話というような幻想に強く意味を見出せなくなったのかもしれない。大学生ともなれば、真剣に就職のことも考える。それに一人暮らしを始め、生活の中のこまごまとした現実的な部分に心の大部分を占められることになる。ある意味で、小説を書くことのできるような人物は生活を作り出すことが難しく、生活の作成に長けている人物は小説の作成は不得手なのかもしれない。一緒に暮らしていたころ、妹の部屋は女の子の部屋にしては散らかっていて、母によく叱られていた。一人暮らしをしている妹の今の部屋は、それとは反対に、機能的によく整っていたのを思い出す。
「ねえ、コーヒーを淹れてくれない?」
彼女がそう言うので僕は紙の束を一旦置いてキッチン向かう。
「ブラックでいいかな?」
「ううん、少し砂糖を入れて。できればカフェオレがいいかも。甘いものが飲みたい気分なの」
「わかった」
彼女は僕が迷惑でない領域を的確に見抜いてその範囲内で僕に干渉してくる。過度の要求はしない。僕が彼女に干渉しようとしても、それが自分の迷惑になることだと彼女はそれを容赦なく断る。彼女は僕に迷惑をかけない。僕も彼女に迷惑はかけない。
僕らの間に「ありがとう」はあるけど「ごめん」は無い。起こらない。そんな関係を僕は心地よく思っているし、彼女のほうも悪く思っていないはずだ。
コーヒーメーカーのコードをコンセントに差し込みながら、僕は緩やかな倦怠と安楽を感じる。
『……
佳奈は弘樹の手の甲にある花を見て、はじめは何か趣味の良くないアクセサリかなにかだと思った。
「本当に生えてるのね」
近くで見て、直に触って確かめて、ようやくそれが本物の花であると理解した。
「まあ、ね」
弘樹本人はもう自分の手の甲に花が咲いているその状況に慣れてしまっている。この花が自分に害の無いものだということは直感的にも経験的にも理解していた。不都合な点は、せいぜい食器を洗う時や服の袖に手を通す時に気を遣うといった程度だ。
「でもこれ、なんて花なのかしら」
「さあ」
「さあ、って何よ」
弘樹の能天気な返答に佳奈は幾分腹を立てたようだ。
「ねえ、これはあなたの身体に起きている事件なのよ。そのあたりのこと、ちゃんと理解してるの?」
「事件って、大げさだな」
「大げさじゃないわよ。ある日突然手の甲に名前も知らない花が咲いていました。なんてこと、もっともっと大騒ぎするべきだわ。なんでそんなに落ち着いていられるかの方が、かえって理解できない」
そう言われればそうかもしれない。弘樹は、自分で自分が何故この事態にこんなに平然と対応しているのか不思議にさえ思えてきた。
「そうだ、私の友達に花屋の娘が居るの。ほらあの駅前の『フルール』って花屋、弘樹も知ってるでしょ。」
花屋の娘。とはまたなんとも古風で非現実的な響きのする名前だと弘樹は一瞬思う。そんなものがフィクション以外に存在しているなんて実感が無い。
「あったっけ?」
「あるわよ」
信じられない。といったふうに佳奈は言う。
恐らく、その花屋を目にはしているのだろう。しかし、「視界に入る」ということと「見る」ということはまた別のことだ。大抵の人は、自分の部屋のドアを開けてから、駅に着くまでの間の物の、その殆どを視界に入れているだろうが、その殆どを見てはいない。無意識のうちに情報は取捨選択される。街は捨てられるべき情報にあふれているのだ。弘樹にとって花屋の看板に書かれている名前は取得すべき情報ではないというだけのことだ。