「グラスメイト」-5
「あれ?このクラスの生徒さんですか?」
僕を見た彼女は、あわてて口にした。
「すみません、勝手に入ってしまって。」
「いや、別にいいっすよ。待ち合わせでもしているんですか?もう、ほとんど生徒いないようですけど。」
「いやぁ、だったらいいんですけどぉ」
彼女は少しうつむいた。
「私、ここに友達いないし。」
まずい事を聞いてしまっただろうか。気まずい沈黙が流れた。日中の頭の痛くなるような喧騒も、放課後の部活に励む生徒の声も、そこにはなかった。
「あ、もう教室閉めるんですか?もう少し待ってくれませんか?」
僕が一番最後まで残っているということは、教室の鍵を僕が閉めて、職員室にその鍵を預けて、担任に報告をしなければならないということだ。そして多分、担任の間宮に残っていた理由を聞かれて、僕は慌ててあるはずのない理由を探すのだろう。その光景を、ありありと想像できてしまう僕は、どこか間違っているのだろうか。そこまで考えて、僕はひとつ大きな溜め息をした。
「駄目ですか?」
その溜め息が、彼女の誤解を生んだらしい。
「えっ?あぁ、いいよ。いつまでいても。どうせ僕も暇だから。」
僕は慌てて誤解を解いた。
「屋上で寝過ごすくらいにね。」
「そうなんですか。だからこんな時間まで。」
「それ以外に残る理由は無いからね。」
「じゃあ、いつもは授業が終わったらすぐに帰るんですか?」
「いや、」
授業が終わる前に帰るほうが多い、と言いかけた僕を彼女は制した。
「そうですよね。学校って面白いから、そんな勿体無いことはできませんよねぇ。」
そう言って笑ったその笑顔を、僕は今も覚えている。
それはもちろん、綺麗だった。
けれどそれ以上に、何ていうか、輝いていた。そう、その笑顔は輝いていた。
多分それは彼女が初めて、教室という青春を閉じ込めた空間で見せた笑顔だったから。
そしてその笑顔は、もう二度と発せられることは無いから。
その表情が、僕に見知らぬ感情を植え付けた。
「知らないでしょうけど、私、このクラスの生徒なんだよ。」
「えっ?」
僕の驚きの表情に、彼女は少し戸惑い、笑った。
「えへへぇ、嘘よ、う・そ・。」
ねぇ、どうして・・・
それは哀しい笑い。
ねぇ、どうして君は今にも崩れそうな笑みを浮かべるの?
のどまで出かかったその言葉を、理性が押し込んだ。
彼女は目を閉じた。
一体何を考えているのだろう。どんな世界を想い浮かべているのだろう。願わくば、その世界の中でだけは彼女が心から笑っているように。僕は役目を終えようとする恒星に祈る。
紅く染まる教室のなか。
遠く思いを馳せるひとがいた。
淡く思いを寄せるひとがいた。
「じゃあ、帰りますか。」
耳障りな静寂を、彼女は制した。
「そうだね。」
言って僕は教室の鍵を手に取った。
「そういえば、名前聞いてなかったね。」
どちらからともなく発した問いに僕らは答えた。
逢沢 伸子――― それが彼女の名前だった。どこかで聞いたことがあるような気がしたが、この学校の生徒なら一度は耳にしていても不思議じゃないだろう。
「それじゃあ、また明日。」
そこまで言って、明日会える保証などどこにも無いと思い、
「校内で見掛けたら、気軽に声をかけてね。」
と言い直した。
「見かけたらね、必ず。」
と彼女は答え、僕らは学校を後にした。もちろん、僕はその後、担任とマンツーマンの生活指導を受けたし、あるはずのない居残りの理由探しに迷走したのだった。