「グラスメイト」-3
今でも聞こえてくるその歌声は、やはり聞くに堪えないものだった。僕は、たまらず目を開けた。あれほど耳に残る歌声は、そうはあるまい。本当に世界的なシンガーになったとしたら、それはそれで面白いと思う。世の中は可能性で満ちていると信じるようになるだろう。僕は、コーヒーカップを手にとったけれど、すでに飲み終えていたことを思い出した。
「お代わりはいいのか?」
そう言う誠の顔を見てみる。三年という時の流れを、そこに感じ取ることができる。口の周りの髭が濃くなり、顔の形は、すこし面長になって、落ち着いた感じになっている。煙草を吸う仕草が、あの頃よりだいぶ板についている。こんなに煙草をうまそうに吸う二十歳も珍しい。
「どうした、人の顔をじろじろ見て。・・・・惚れたか?」
「あぁ、メロメロだよ。特に煙草をフィルターまで吸い尽くす貧乏性なところがとってもダンディーだ。」
言って、僕も誠も、声を上げて笑った。こんなやりとりは、久しぶりだ。近くにいたウェイターがびくりと驚いた。そのウェイターにコーヒーのお代わりを頼んだ。
「なぁ、誠。陽平はどうしてるかな?」
「陽平かぁ、どうだろうなぁ。卒業と同時に、ギター一本で東京に乗り込んで、カウンターパンチを受けたって話、去年の同窓会で聞いたな。陽平は来てなかったけれど。噂だけは、わんさか出てきたよ。」
「どこまでも、お騒がせな奴だ。あいつほど好き勝手に生きている奴は、そうはいないだろうよ。でも」
言いかけて、コーヒーを持って立っているウェイターに気付いた。すいません、と言って僕はコーヒーを受け取った。それから僕の言葉の続きを誠は言った。
「でも、羨ましい、か?陽平も、太一も、何年も前にこの街を出て行った。」
「そして、お前も。」
「あぁ、俺も近いうちに出て行く。兄貴に誘われてね、神奈川のほうで店をやるんだ。兄貴もあれで、なかなか考えていたんだな。うちの靴屋はずっと赤字だったからね。都会で店を軌道に乗せて、親に仕送りをしたいんだとさ。」
まったくよぉ。
誠の顔には、うっすらと笑みが浮かんでいた。
「格好つけやがって。親父も泣いてたよ。だからさ、俺も兄貴の手伝いしてみたくなった。実家の方は親だけでやっていけるって言うから。」
俺も泣かせてみたいんだよ、親を。
誠は、そう言った。
「正直、少し嫉妬してる。」
僕はコーヒーにミルクを入れながら呟いた。
「みんなが僕の知らない世界に行く。そして多分、何かを得て戻ってくるんだろう。僕だけが、年中寝ぼけたようなこの街で、眠い目を擦りながら、あくびのでるような仕事をし続けている。」
「変わらないさ。何処に行っても、やることは同じだ。」
「出て行く奴は、みんなそう言うよ。変わるために出て行くんだろう?遠慮せずに言えばいい。」
ミルクをスプーンで混ぜながら、僕は情けない言葉を吐いた。
「それじゃあ、遠慮せずに言わせてもらうよ。」
誠は、今までとは違った、厳しい口調で言った。
「俺は、この町を出る。それは、新しい事をしたいからだ。正直、変化の無い毎日にうんざりしている。俺は変わる。お前を置いてな。いや、」
誠は、そこまで言って店の外に目をやった。
僕らが生まれてから、ずっと変わらない街並みが腹立つくらいに、そこにある。
だからお前は出て行くのだろう。
「本当はな、これが言いたくてお前を呼んだんだ。」
その景色から逃げるように、彼は視線を逸らした。僕の方へ。
「一緒に、行かないか?」
誠なら、あるいはそう言うと思っていた。他人の事を優先させるその性分は、やはり学級委員のあの頃と変わってはいなかった。
僕は窓の向こうを見つめた。
彼女が去ってから、ずっと変わらないでいてくれる街並みが、悲しいくらいに、そこにある。
ならば、僕は。
「ごめん。ありがたいけれど、それは無理だ。」
「・・・・そうか。」
溜め息まじりに言うその声には、それほどの落胆の色は含まれていないようだった。誠もおそらく、予想していた答えだったのだろう。
「まだ、彼女を待つのか?」
僕は答えなかった。誠なら、無言を肯定と受け取ってくれるだろう。
「それも、お前らしいか。けれど、それが叶うことがないとしたら、お前の生き方は、無意味だよ。」
「かもな。」
そう答える僕の顔を暫く眺めてから、誠は財布から札を一枚取り出して伝票のうえに置いた。
「帰ってきたら連絡するよ。元気でな。来たくなったら、遠慮せずに来いよな。」
そう言って、誠はこの街を出て行った。僕は、無料になったコーヒーを口にしながら、彼の後ろ姿を見送った。彼が喫茶店を出て行ったあとに、僕は別れの挨拶を忘れていたことに気付いた。あまりに普段通りに、彼は出て行ったので僕はほんとうに一人になってしまったのだ、とずっと後になってから、ふと感じるのだった。