恋愛小説-3
「だから地毛だって言ってんだろ!」
何かを蹴飛ばす音と怒声。びっくりして扉を開くと、茶髪の女子生徒が教師に啖呵を切っているところだった。
「何回言やぁわかんだよ!このおっさんじじぃ!」
学年主任に掴みかかる勢いで怒鳴る女子生徒。おそらく頭髪検査にでも引っ掛かったのだろう。長い茶髪を揺らし、その視線が僕を捉える。
「このおっさん、ハゲだからあたしに嫉妬してるんだ!あんたもそう思うだろ!?」
「はい」
僕はイエスマンだった。
放課後、なぜか僕まで反省文を書く羽目になった。
西陽の射す教室で、頬杖をつきながらシャープペンを回す彼女に話しかける。
「あのさ」
「何?」
「おっさんじじぃ、って意味が重複してるよね」
「だから?」
「ううん、それだけ」
沈黙。会話のキャッチボールとしては恐ろしくつまらなく、短いやりとりだった。
一体、僕は何をしているんだろう?原稿用紙を睨みつけペンを持つが、マス目は一向に埋まる気配がない。
もう何もかもにうんざりしていた。高校がつまらないことにも学年主任がハゲていることにも、資本主義経済にさえうんざりしていた。酷く眠い。早く帰りたかったが、真っ白な原稿用紙が僕の前に立ちはだかった。静かな教室には時間だけが埃のように積もり、埋もれていった。
「あぁ、駄目だ。かったるい」
静寂を破ったのは、イスを蹴飛ばし立ち上がる音だ。
「ねぇ」
投げかけられる声。顔を上げると、夕陽を全身に浴びて橙色に染まった彼女の姿があった。
―――その時、僕を襲った激情が何なのかわからなかった。
終末に一輪だけ咲いた花。絶望の先に生まれた希望。夕暮れに佇む凛とした表情は神秘性に溢れ、僕は魅せられたように動けなくなってしまった。
「一緒に逃げない?」
この一言が始まりだったのかもしれない。退屈な毎日を、つまらない日常を、美麗な綾で色づける存在。あかりと共に駆け抜けた日々は、いつだってきらきらと輝いていた。
恋とは違う。でもきっと同じくらいに尊く、大切な感情だった。男女の友情なんてドラマや小説の中だけにあるものだと思っていたし、もし現実にあったとしても僕には手に入らないものだと思っていた。それを、彼女は易々と与えてくれたのだ。
けれど、彩り始めた三年間は思ったよりも早く過ぎ去っていった。それはもう過去だ。いまさらどうあがいたって手に入れられない。
制服を脱いでしまった僕には風は少し冷た過ぎた。大学生活は思っていた通りに薄っぺらく、心にぽっかりと穴が開いたような毎日だった。
高校の友人も新しい環境に馴染み、会う機会は減っていった。仲が悪くなったわけじゃない。皆とも、もちろんあかりとだって関係は変わっていない。たまに会えばこうして楽しく酒を飲めるし、会話も弾む。それでも―――。
変わってしまうものもある。街だって人だって、僕を置いてどんどん変わっていく。家の近くにあった公園は月極駐車場になったし、バンドマンだった友人は郵便局に就職した。
何だって、前に進んでいる。駐車場の利用者は増え、いらないダイレクトメールはポストに溢れていった。
進歩、成長、発展。
空虚、空虚、空虚。
関係は変わらなくても、仲が良いままでも、僕は取り残されたように一人立ち尽くしていた。何に脅え不安になっているのか、自分でもわからない。
―――素敵なお店ね。
あの子だって、これから先はもっともっと遠くに行ってしまう。遥か先へ、手の届かない所へと。それとも、元から住む世界が違ったのだろうか?だとしたら、日溜まりの教室で過ごした暖かい日々なんて、長い人生での一瞬の交差なのかもしれない。