飃の啼く…第24章-12
「彼女は幸せそうでした。一介の穢れに過ぎぬ私が、こんなにも強く記憶に焼き付けてしまうほどに。しかし医者は言いました。心の蔵に病を抱える彼女の体は、出産の負担に耐え切れず死んでしまうかもしれないと。医者は堕胎を提案しました。まだ今なら、負担も無いと。彼女はすぐに結論を出しませんでした」
背筋をピンと伸ばし、正座した膝に両手を重ねて、澱みは再び私を見た。
「私は酷く興味を持った。残り少ない命を惜しんで、人間が集まるこの大きな建物の中で、私は初めて、自分の命と引き換えに命を作り出すか、それとも生きながらえるかの葛藤に直面した人間を見たのです。数日後、夫を伴ってやってきた彼女を見て私は驚きました。彼女の傍らにある背高の男は正しく狗族だったのですから。私の本能は彼に襲い掛かることを命じ、別の何かがそれを押しとどめた。貴方の母は、子供を埋める体であるかどうかを詳細に検査するために病院に留まることとなり、私は益々彼女に興味を持った…当時私はある同属と、吾ら以外の存在と共存することについて、意見の食い違いから対立していたのです。この人間を観察すれば、彼を説得する理由を見つけられるのではないかとも思いました」
「それで…?」
自分が口にしたことも気付かないほど、小さな声で言った。
「我々が人間の身体に入り込み、思うままに操ることが出来るのは知っていますね。私は彼女の主治医に取り付いて、ある晩病室を尋ねました」
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月の明かりが、白いカーテンに宿ったかのようだった。風も寝静まり、木々はふわりとも揺れませんでした。
「何を迷っているのです」
と私は尋ねた。死ぬのが怖くは無いのかと。彼女は、自分の主治医の身体の内にただならぬものが潜んでいるのを察したようでしたが、こう答えました。
「死ぬのは…残念だけれど、怖くはないわ…」
「残念?」
彼女の髪は、ちょうど今の貴方のように短くて、首を傾げてようやく、肩に届くくらいの長さでした。彼女はしばらく答えを探すために、いいえ、答えを伝えるための言葉を探して沈黙しました。
「この子の一生は戦いに彩られるでしょう。傷つき、疲れ果て、死んでしまいたいと思うかもしれない。だからこそ、私が一緒に居てあげることができるわずかな時間は、満ち足りたものであって欲しい…そして、優しい言葉を沢山かけてあげたかったのよ」
私はピンときました。狗族が、生き残りをかけた神器を生み出そうと画策していることは知っていましたから。それに、彼女の身体には神聖なる氣が宿っているのが感じられた。間違いなく、八条皐月という女性は、今後自分の仲間を脅かすであろう神器の申し子を身篭っていました。
「私を殺すの?」
気付くと、彼女は真っ直ぐに私を見つめていました。私が何であるか、彼女にはわかったようでした。私は、そうしなければならない理由を、求められれば幾つでも並べることは出来たでしょう。しかし、そうしたくない理由が、たった一つ、私の首を横に振ったのです。