きみおもふ。-12
「なぁんだ、そう言えばいいのに逸ったら。照れ屋ねぇ。大丈夫よ、もう怒ってないわ。さあ朝ご飯にしましょうね」
ふふ、と微笑みながら友夏を撫でると、逸母はワルツを踊るようにキッチンへ消えていった。
「おかん、ゆかのこと本当に可愛いらしいな…」
複雑な顔をしてキッチンの方を見やる逸。息子としてあんなに機嫌の良い母親を見るのは変な気分なのだろう。
「あ、逸くん、あの」
おろおろした様子で友夏が逸を振り返った。
「あの、私昨日……」
フ、と逸の瞳が細くなる。優しい表情。
「ありがとう」
ふわりと逸の手が友夏の頭へと伸びた。くしゃくしゃと撫でてから、リビングを出ていく。
呆気にとられて友夏は彼の背を見た。と同時に心がじぃんと痺れる。
(逸くん、笑ってくれた…)
ほっとしたのと嬉しいので友夏は一人微笑みを零すのであった。
「いってきまぁす」
見送る逸母に向かって手を振ると、友夏は自転車の荷台に飛び乗った。冷たい大気の中をゆっくり動きだす。
「ごめんね、お荷物になっちゃって」
前でハンドルを握る逸に声をかける友夏。
「昨日も勉強みてもらったし……中間の勉強とかしたかったでしょう?明後日からだもんね」
「いいよ、べつに」
素っ気ない逸の声に友夏は溜息をついた。
「はぁ、出来が違うもんなぁ…逸くん」
言いながらふと部屋の光景を思い出す。ずらりと並んだ参考書。あれだけこなすなんて友夏には想像できない。それから……
「あっ、そういえば。逸くんあの写真飾ってるんだね、机に」
ぴくん、と逸の体が反応した。友夏は気付いていないようだが、耳まで真っ赤である。
「私も持ってるよ。小学二年……くらいだっけ」
「三年だよ」
真っすぐ前を見据えたまま逸がピシャリと訂正した。
「ああ、そうそう。公園で四つ葉探したんだよね、一緒に。でも逸くんばかり見つけてさ」
「ゆかが拗ねて」
そう、と吹き出す友夏。
「そしたら全部くれたんだよね、採ったクローバ」
「そうだっけ?」
とぼけたように逸は空を仰いだ。晴天。まさに秋晴れである。
「そうだよ!忘れたの?」
心外だと言わんばかりに、友夏がぎゅっと逸にしがみついた。
「ひどいなー」
背後で膨れる友夏に、逸はくすっと笑みを洩らす。
「……忘れるわけ、ねぇだろ…」
全て、何もかも。
友夏と過ごした刻は体中が覚えている。
いや
忘れたことがない。
忘れられないよ。
「え?何か言った?」
身を乗り出し問う友夏の声。想いを掻き消して、彼は答えた。
「今日は空が高いな、って言っただけだよ」
言葉につられて友夏は空を見上げる。そこには、生まれたての清い光が広がる空が、一面に広がっていた。
そう、まるで逸の胸に秘められた、海の如く深く静かな美しい想いのように。
高校三年生の一年が早く感じるのは予定が詰まり過ぎだからだ。次から次へとテストや行事が行列のようにやってきては過ぎてゆく。情も持たずに。
そんなわけで本日は中間最終日である。早くも答案が返される教科があり、生徒達はその紙切れを手にあーでもないこーでもないと言い合っていた。
たかが紙切れ。されど紙切れ。生徒達には大きな影響を及ぼすのだ、その紙切れは。
ざわつく教室の中、一人整然と帰りの支度を進める青年。逸である。毎度のこと、彼は教科単位でも学年トップを突っ走っているので騒ぐまでもない。
ふと手を止める逸。彼の視線は一人の少女へと注がれる。
二つに分けた髪を、緩めに結っているその少女は友人等と出来栄えについて語りあっているらしい。
哀しげに一つ溜息を漏らすと、逸は教室に背を向けた。廊下を歩き出す。
窓から差し込む太陽の光。今日はどことなく頼りない。今朝まで雨が降っていたせいだろうか。