エス-36
加藤の部屋のドアがノックされる。数日前から何度もそれは続き、電気屋だったり大家だった。加藤が反応を返さないと数十分でそれは止みまた部屋には静寂が戻った。
だが今回は違っていた。
もうかれこれ1時間になる。
加藤の意識がゆっくりと戻ってくる。寝返りを打ちドアを向く。まだ起き上がる気力は湧かない。
ノックが止まり、聞いたことのある声が加藤の名を呼んだ。
「加藤さん、律子です」
加藤は飛び起きてドアに向かう。弁当の容器に滑り、ゴミを蹴っ飛ばし、ドアに飛びつく。
エスを知っている律子に何かを話したかったのかも知れない。
現実では無くて、また迎えに来て欲しかったのかも知れない。
薄いドアを開けると右手をさすりながら真っ直ぐ前を向いて律子が立っていた。いつもの制服で、いつものように。
加藤の姿を見ると頭をゆっくり下げて挨拶をした。
顔を上げた律子の顔は瞼が腫れていた。
「探すの大変でした」
律子はそう呟くように漏らし笑みを見せた。
加藤が力なくしゃがみこむ。
「そうか……。現実なんだな」
加藤の一言に律子もしゃがむ。白い膝小僧が加藤の目に映った。
「はい。覚悟は出来ていたのですが、私もショックでした」
律子の声に加藤は顔を上げる。
「いつ……から」
声が掠れた。律子の目が加藤から逸れてドアの錆びた蝶番を向いていた。
「加藤さんをエスの元へ案内するずっと前から」
律子の提案で二人は駅前のコーヒーショップに居た。
あれほど多いと思ったマスコミはほとんど居らず、律子の話によると芸能人の婚約があったとかでテレビもほとんどそっちか、或いは遠藤に張り付いているとの事だった。
遠藤は警察に呼ばれ、多額の保釈金を支払ったとか、情報が錯綜していると律子は説明した。
目の前にあるコーヒーをじっと加藤は見つめていた。
「一週間ぶりのコーヒーだ」
カップを取ると急に空腹感が襲ってきた。
腹が鳴り、律子は席を立つとパンをニ、三個買ってきて加藤に渡す。
「悪いな」
袋を破きパンに齧り付く。
律子は加藤がパンを食べ終わるまでじっと動かずに待っていた。
「これを加藤さんに渡さないといけないと思いまして」
加藤がパンを食べ終わりコーヒーを一口飲むと、律子が鞄から通帳と印鑑を出してテーブルに置いた。
加藤が手に取り名義を見ると『野宮詩織』となっている。
的を得ない表情で律子を見る。