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エス
【純愛 恋愛小説】

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エス-12

「入らないの? 」

「いや、あ、入る。何となく、な」

苦笑いを浮かべる加藤にエスは首を傾げた。

「変なの」

小さな手が加藤の腕を掴んで引っ張る。
人の流れを上手くかわして二人はビルの中に入って行った。

二人は机を挟んで向かい合って座り、エスが買ってきたドーナッツを広げた。
およそ一人で食べるには多すぎる量のそれをエスは「どうぞ」と言いながら加藤に勧めた。
加藤が数種類の中から一番甘くなさそうな物に手を伸ばした時、エスはポケットから細い缶の紅茶を二本出して置いた。
やられたという顔をした加藤にエスはにやっと微笑んだ。

「加藤さんドーナッツなら食べれるかなって思って」

クリームがべっとり付いたドーナッツを半分にちぎってから口に入れエスはそう言った。

「…ドーナッツなら? 俺はサンドウィッチやおにぎりの方が良いけどな」

二個目のドーナッツに仕方なくクリームが付いている物を選びそのまま口に入れながら加藤も言う。

「うーん。でもあたしが食べたかったんだ。好きなの」
「そうか。知ってると思うが……」

缶紅茶を一口加藤が飲んでから言葉を止めた。
エスも咀嚼を止め加藤を見た。

「取材、中止になった。これで俺がここに来る理由も無くなったわけだな」
出来るだけさらっと言い、三個目に手を伸ばす。
エスは食べかけのドーナッツを机の上に広げた紙ナプキンの上に置いた。

「…知ってた」

「そうか。じゃあ言わなくても良かったな。…ま、俺が気持ち悪いから、言っただけだけどな」

指先に付いたクリームを舐めて加藤が言う。
ごちそうさま、と、言い、荷物を手に立ち上がる。

「これ、返すよ。お前に会えて…、なんだ、面白かった。記事には一生しない。元気で暮らせ」

合鍵がドーナッツの欠片が散らばる机に置かれた。
銀色のそれは窓から差し込む光に反射していた。
エスは加藤を見たまま黙っていた。

「何か言えよ」

鞄を背の後ろに持って行き、エスを見つめる。
エスの顔にはいつも諦めの表情が浮かんでいた。
今も、同じ顔をしている。

「……うん。それは加藤さんが持っていて? その、別にここに来て欲しいとか、そういうわけじゃないんだけど」

鍵を指差してエスはやっとそれだけ言った。
加藤はすこし躊躇ったものの、黙って鍵を手にした。

「それからっ…」

エスはそう言いかけて止まる。
加藤は鍵を手にしたまま、じっと、エスを見て。

「言えよ」
と、呟く。
エスは俯いたまま何も言わない。

「言えよ、お前の我侭聞いてやる」

エスが驚いた表情を浮かべて加藤を見上げた。
こうなる事がわかっていたはずではないのかと加藤は思った。


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