燦然世界を彩る愛-3
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「死に至る病とは絶望のことである、ってやつですねー」
ちょうど日付が変わろうとする夜中の零時だった。
デンマークの哲学者、キルケゴールの言葉だっただろうか。電話越しに聞こえた声は震えを孕んでいた。
「…お前、今どこいんの?」
「えっと、自分の家です。片付けが終わったとこみたいで…気づいたら、戻ってました」
片付け、と聞いて僕はすべてを理解した。
「すぐ行くから待ってろ」
短く告げ、彼女の家へと駆けた。
鍵は開いていた。玄関は真っ暗だったが、リビングから洩れる光が廊下に薄く伸びていた。
もう初夏だというのに、屋内はひんやりとしている。凍ったように冷たいフローリングを足の裏で感じながら、僕は歩を進めた。
リビングにはぺたりと座り込んだ杉坂がいた。俯いていて、顔は見えない。
「おい…」
声をかけるのと、それは同時だった。
体を思いきり寄せてきたので思わず抱き締める。僕の腕は彼女の肩を抱き、彼女の手は僕の首を乱暴に掴んだ。―――首?
強い圧迫感。ぎゅう、と万力のように固定され締め付けられる。
その華奢な身体からは想像もつかない力だった。両側から伸びる真っ白な二の腕が、蛇のように首に絡み付く。
「っ………」
狭い視界の中に飛び込んできたものがあった。彼女の制服に点在する、素肌とは対照的な赤色。
「すぎっ……さ…」
名を呼ぶと、栗色の頭が揺れた。
「…せん…ぱい?」
黒々とした瞳に僕が映った。
するり、と手がほどける。
「がはっ…!はぁはぁ…」
尻餅をついて倒れこんでしまった。喉を押さえ呼吸を調える。
杉坂は虚ろな表情で、自分の手と俺を交互に見つめていた。
「あぁ、また『ワタシ』が…」
その瞳孔から光が失せる。
「…気にすんなよ、何ともねぇから」
出来るだけ落ち着いた声で、返事をした。
「せんぱいを傷つけやがったんですね、『ワタシ』は…」
声が震えていた。
微弱に、けれど直接的に伝わる彼女の怯え。
心は水面に映る虚像のように不安定だった。波紋状の広がりは流れが乱された証拠だ。小石ひとつで揺らいでしまうような、酷く脆弱な。
「ワタシは…どうして乱暴者なんですかねー?すっげぇサディストです。せんぱいがドMならそれはそれでいいんですけど」
蹂躙された心は鼓動を速める。ただひたすら、何かから逃げるように。
「人格ってのは、日々の膨大な記憶を処理された蓄積物によって形成されてるもんらしいんですよ。…だからワタシは『痛い』とか『苦しい』とか、そういうのばっかりで創られてるんです。果汁100パーセントならぬ、不幸せ100パーセントってとこですかねー」
言って、笑った。
自嘲的な笑みだった。
「…お母さんは、本当は優しい人だったんです」
後ろを振り向いた彼女は、大きなドラムバッグを指差した。おそらく『片付け』た後なのだろう。
「お母さんが私をぶってたのは私が悪い子だからなんですよ。愛されるわけがないんです、こんな私が」
「でも俺は…―――」
愛してる、なんて言葉を軽々しく口に出そうとした自分が空恐ろしくなった。
守れなかったくせに。何を言おうっていうんだ?
アイシテル。
連結されたその語句が蛆虫のように身体中を這う感覚がして、背筋がぞっとした。