投稿小説が全て無料で読める書けるPiPi's World

和州道中記
【その他 官能小説】

和州道中記の最初へ 和州道中記 53 和州道中記 55 和州道中記の最後へ

和州記 -或ル夏ノ騒動--10

「そのきっつい薄荷の匂い――蘇芳と兄貴と、三人で稽古してた時を思い出すわ」
妙に懐かしい匂いだった。
「…変やなあ…。今までずっと、あいつが死んだこと悲しいなんて思わんかったのに」
俯いていた面を上げて、ぽつりと独りごちるように、一紺が言った。
「一紺…」
鳩羽は何かを言いかけたが、すぐに首を横に振る。
「止め止め。らしくねえ」
「…せやな。蘇芳が今の俺等見たら、きっと腑抜け言うて笑うわ」
一紺の言葉に、鳩羽も薄荷の匂いの煙を吐きながら、違えねえと笑う。

「で、誰なんだ?」
「?」
いきなりの鳩羽の問いかけに、一紺は疑問符を浮かべた。
「竜胆ってのは、誰だって聞いてんだ。女だろ、ええ?」
「な、ななな何で竜胆のこと知ってんねん!?」
「お前が飛び起きるなり言ったんだよ」
呆れた声で鳩羽は言う。
「ま、想像はつくがな。お前も男になったってことか?」
にやりと口元を歪ませる彼に、一紺は決まり悪そうに口を噤んだ。
そしてそんな一紺の頭をくしゃりと撫で、鳩羽は笑う。
「大分強くなったしな。後何年かしたら、俺は抜かれちまうかもな」
言いながら、彼は一紺が俯いて黙り込んでしまったのに気付き、首を傾げた。
「おい、どうしたってんだ?」
「あの、あのな。兄貴にお願いがあんねん」
切羽詰ったような一紺の言葉と表情に、鳩羽は戸惑いを感じながらも頷いた。

――剣闘に参加したわけ。竜胆のこと。彼女に子どもができたかもしれないこと。
そして、自分はどうしたらいいのかということ。
一紺はこの数日のことを洗いざらい鳩羽に話した。
「…俺、ガキが出来たかもしれんて竜胆が言うた時」
「素直に嬉しいと思えたんや。でも、考えれば考えるほど不安になってきて」
ひとつひとつに頷きながら話を聞いていた鳩羽は、そんな一紺の言葉にぴくりと眉を動かす。
「なあ、俺、どうしたらええんやろ?」
「馬鹿野郎」
戸惑うような一紺の表情。鳩羽は彼の頬に拳を打ち込んだ。
軽いものではあったが、剣闘の傷が酷く痛み、一紺が顔を顰める。
「てめえはもうガキじゃねえんだ。そのくらい、分かるだろ?」
低く恫喝するような声だったが、鳩羽の顔は笑っていた。
「てめえが一番にやらなきゃいけねえのは、不安にならねえことなんだよ」
「…不安に?」
「考えること、不安なことは山程あるだろうさ。今回のことに限らずな。でもな、お前が慌ててどうすんだ。不安を見せて、その不安が彼女に伝わったら?」
その言葉に、一紺ははっとしたような表情を浮かべる。
不安を持つなとは言わねえよ、と言いながら、鳩羽は煙管の雁首を叩いて灰を落とした。
「不安を見せるなってことさ。それと、何とでもなる――そんな気楽さを持つことが、一番なんだよ」
そう言って紫煙を燻らせる鳩羽に、一紺は深く頷いた。
その表情は、未だに戸惑いを孕んだものではあったが。


一方で竜胆は、厠の前で茫然としていた。
「なんだ…はは、良かった…」
疲れたように笑い、少しだけ痩せた頬に手を当てる。
そして彼女は小さく嗚咽を漏らした。


和州道中記の最初へ 和州道中記 53 和州道中記 55 和州道中記の最後へ

名前変換フォーム

変換前の名前変換後の名前