Need/-ed-1
頭に繋いだヘッドホンが送り込む旋律にのせて、刻む足取りは軽い。正午を迎えた陽光は暖かい。この温もりには覚えがあった…まるで、肩を抱くようなこのぬくもりには。マフラーを畳んでバッグに突っ込む。歩みの遅い人の波を、踊るようにすり抜ける錯覚は、自分だけのものだ。
―恋の歌に心が弾むなんて…
あたしは思った。
―一番有り得ないことだった筈なのに。
自他共に認めるリアリストであるあたしではあったが、この気分に浸らずにいることはできず、ましてや無視するなんて、とてもできそうに無かった。
それなのに…
「…ただいま。」
帰って来たあたしを迎える同居人である筈の彼。本からチラリとも目を上げない奴の言動には、残酷ささえ感じる。
「あぁ。」
優しい言葉を期待したり、ちょっとした気遣いをせがんだりする段階はとうに過ぎていた。と、思っていたのに…
―素っ気ないこと。
密かに溜め息をついて、制服を着替えに部屋に入った。
分厚い紺のブレザーともそろそろお別れだ。堅苦しい制服を脱いでも、寒さに身震いする季節では無くなった。下着姿で制服をかけるハンガーを探して居る時に…
「茜、夕飯は…」
「な…」
硬直。
振り向いた自分と、風炎の目があった。
「…あ…」
「ででで、出てけっ!!」
悪かった、とドアを閉めた風炎と、そのドアに向かってブレザーを投げ付けたあたしのどちらが紅い顔をして居たかは定かでは無かった。
―全く…
食器を洗いながら、まだ暴れそうになる心臓を必死になだめる。
―いつもは素っ気ない癖に、ああいうときだけあんなに取り乱すのよね…なんか期待しちゃうじゃない…
「期待…何をよ。」
思わず呟いて、自ら一笑にふした。風炎が自分に期待を抱かせる何をしたっていうんだ…何気ない視線、何気ない仕草に勝手にドキドキしているだけ…あたしは、こんなに乙女な性格だっただろうか…?
「うぁっ!」
嫌な音がして、手から滑り落ちた茶碗が割れた。
「あーあ…」
変な事考えるから…。ため息をつきつつ破片を拾おうとして
「っつぅ…」
指まで切るのは、ますます重傷だ…
「切ったか?」
いつの間にか、風炎が後ろに立って居た。内心飛び上がりたいくらい驚いていたけれど、なんでもないことのように振舞う。
「平気よ、舐めときゃ治るわ。」
とは言え、ここで強がるのは得策では無いのかもしれないな…。風炎の気を引きたいなら…。でもいざとなると、口をついて出るのは、可愛げのない実際家の言葉だった。切れた指を庇いながら再び食器をかたそうとしたあたしの手を、風炎が掴んだ。
「見せて見ろ。」
平気だってば…と言いたくなる。言わずに済んだのは、風炎がその指を咥えたからだった。声にならない叫びが喉まで出かかって、代わりにまた顔がほてって、いや、身体中が上気するのがわかった。熱い舌が、傷をいたわる様に撫でた。風炎の表情を伺う余裕等無い。
「どうも!」
慌てて言って、指を引き抜こうとやんわり手を引いたけど、あたしの手首を掴んだ手がそれを許さなかった。こんな展開を望んだわけでは…
ぞぞぞ、と首筋を震えが走る。生き物の様な舌が、咥えた指をくまなく愛撫してゆく。