『運命〜君の居る場所〜』-4
―――そんなくだらない「if」で頭をいっぱいにしながら私達は井の頭線に揺られた。
平は何も喋ってくれず、私もただその指だけを見ていた。
ヘイのアパートの近くの駅で降りて、ごちゃごちゃした商店街を抜け、土の匂いのする大きな公園をひたひたと歩いた。
その間中も、ひたすら私は平の指だけを見続けていた。
あの指に触れたい。
ただそれだけを念じて―――。
公園を抜けたところにある平のアパートはやたら綺麗だった。
いやそれはマンションと言うべきものだった。
「高給取りめ。」
私の毒づきに
「その分、命削ってますから。」
と平は苦笑した。
私は平が何故、会社を休職したのかを未だ聞いていないことに気が付いた。
1DKの部屋の窓際に電子ピアノは置かれていた。
「リクエストは?」
「あの曲」
そう言うだけで、ハ短調の交響曲が流れ出した。
哀しくなった。
あの時の音では全くなかった。
迫力も感動も切羽詰った響きも、何もなかった。
ただ音が鍵盤を滑っていく。
誰かこの音を止めて!!そう叫びそうになった時、別の音が鳴った。
平がピアノを止める。
見ると私の携帯だった。
ディスプレイさえ見ぬままに、電源を消した。
誰にも邪魔されたくなかったから。
「どうして会社休職したの?どうして彼女と別れたの?」
私は追い立てられるようにまくし立てた。
それは聞いてはならないことだった筈だ。デリカシーのある大人であれば。
しかし私には聞く権利があると思った。
思いたかった。
「……忙しくて、忙しくて、毎日3時間しか眠れなくって。彼女と会えなくて。彼女と会うより睡眠の方を優先して、終った。あまりに辛くて体壊したから、1ヶ月休むことになった。」
その答えは、とても高尚な気がした。
「椎名は?」
セクハラっぽいもの、という答えしか持たない私は、それに答えることができなかった。
平と私ではあまりに違う。
私は弱すぎる。
「結局さ、俺は、仕事は替えがきかないけど、彼女は替えがきくって、心のどこかで思ってたんだ。」
誰に言うでもなく、平はボソリとこぼした。
心のどこかがキンと音を立てた。爪でガラスを引っ掻いたような音。
ああ。男の人はそうなのかもしれない。
いや、女だってどこかでそう思っているのかも。男は裏切るけど仕事は裏切らないって。
私は仕事にも裏切られた。男にも……
桂介の顔が浮かんだ。
少なくとも桂介は、平と同じことを考えているのだろう。
――仕事は替えがきかないけど、彼女は替えがきく――
桂介がそう言っている姿を想像したら、涙が喉まで込み上げてきたが、やっぱりぎゅっと我慢した。
「ご飯でも食べに行こうか。近所にうまいラーメン屋があるんだ。」
気を使って話題を変えてくれた平に、私はとことん甘えてみたくなった。
「夕飯、私が作ってもいい?私がヘイと付き合ったらしたかったこと、今日は全部してみたい。」
それは冗談でもなんでもなかった。
笑って言ったが、ふざけていない事を平は感じただろう。
私はチャンスを活かしたかった。
平が私を部屋にあげてくれるなんてことは、長い一生の中で、もうないかもしれないのだから。