金木犀の誘惑-8
「もう大丈夫だよ!」
「何処からかけてる?」
「資料室です!」
「誰もいませんから安心して下さい…」
「先週末はご迷惑をお掛けしました。私の事は気にせず、余計な事は考えないでいて下さい…」
「私が自分勝手に甘えたんですから…」
「ご迷惑だなんて…」
「僕の方こそ気に留めないで欲しい!」
「あの夜の君を、独りに出来なかったのは言う迄もない事実だけど…」
「部長…本当に私、何て言ったら良いのか…」
「君だけが謝る事じゃないんだ!それに、悪戯に君を抱いた訳でもない…」
「いつもの君らしく、」
「快活な大塚恵子でなきゃね?さっ!後数時間、仕事に戻らなきゃ駄目だよ」
大樹は絶ち切る様に電話を切ると、そのまま着信履歴に残された恵子の携帯番号を登録していた。
[携帯メール]
慌ただしい毎日が過ぎ、鬱陶しい梅雨も明けた7月中旬、総務課に所属する恵子と、第一線で辣腕を奮う大樹が、社内で顔を合わせる事は少なく、時折エレベーターや、各階の通路ですれ違う事は有っても、具体的な接点は皆無に等しかった…。
そんな初夏の昼下がり、大樹の携帯が一通のメールを受信した…。
「大塚です!勤務中、勝手にメールなどしてゴメンナサイ。新しい社員名簿をまとめていたので、部長のアドレスを知る事が出来たんです。今夜ご予定が無ければ、食事でもご一緒しませんか…? 」
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「いいね!この暑さで喉も渇きっぱなしだし、今日は定時で終わらせるつもりでいたんだ」
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「嬉しいっ!断られたらどうしようって思ってたんです。少し面倒ですけど、品川プリンスのバーはどうですか?東京の夜景でも肴に…」
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「週末だし、予約が無ければ窓辺の席は無理じゃないかな?」
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「実は、既に予約してあるんです(笑)」
「勝手ですけど、19時30分にホテルの1階ロビーで待ち合わせで良いですか?」
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「君らしいね(笑)」
「じゃあ、19時30分に、1階ロビーで…」
大樹が仕事以外でのメールをするのは稀であり、恵子との短いやり取りに新鮮さを覚え、その憎めない勝手さに思わず苦笑してしまった…。
予定どおりに仕事を片付け、身支度を終えた大樹は、都電とタクシーを乗り継ぎ、約束の時間にホテルのロビーに到着すると、人待ち顔の恵子が大袈裟に手を振っていた。