パルティータ(後編)-9
そのときベッドの枕元にある携帯電話が着信のランプを点滅させていた。男はベッドに戻ると電話を手にした。表示は妻の番号を示していた。彼は電話に出たが、声は聞こえなかった。無言電話だった。沈黙の中に相手の気配が感じられた。彼はじっと耳を澄ませた。しばらくすると音がはっきりと聞こえた。それは電話の先の憧憬だけを男に伝えるものだった。
ビシッ、ビシシッ………ううっ、あううっ………
肉肌に鞭が弾ける音、そして洩れてくる女の嗚咽……遠い記憶の中にある声だった。それは《どちらかと言えば妻の声》に近かった。妻であって、妻でない女の喘ぎ声。電話の先の憧憬は烈しく身悶えを始める。鞭が空(くう)を刻み、うねり、しなり、女の肉体を打ち叩く。きりきりと憧憬が締めあげられ、女は体をたわませ、髪をふり乱し、乳房や尻を波うたせ、腰をくねらせる。まるで目の前でその憧憬を見ているような錯覚に男は堕ちていった。
ビシシッ……ビシッ………
鞭の音はしだいに烈しくなり、規則正しい連打のリズムは冷酷さを増していく。その音はまぎれもなくあの老人の瞳の底にある淫鬱な光を含んでいた。鞭を振り上げているのはあの老人に違いなかった。そして鞭の音は男の記憶の中に別人のような妻の姿を甦らせていく。
ああっ、もっと、もっと欲しいわ………
耳をふさぎたくなるような声だった。それは確かに妻の声であり、妻の存在の意味を彼の中に刻んでいく声だった。
ふと気がつくとすでに電話は切れていた。男は茫然と立ちすくんでいた。部屋にはバッハの無伴奏ヴァイオリンパルティータが流れている。いつからその音楽が流れていたのかわからなかった。旋律が記憶の糸をほぐすように彼の心に絡み、折り重なる紋様を描いていく。
男はソファに横たわり、じっと天井を眺め続けていた。テーブルには飲みかけのスコットウイスキーの琥珀色のグラスが部屋の淡い光を吸い込んでいる。
妻の記憶をめぐる言葉と憧憬が浮かんでは消えていく。別に妻の何かを思い出そうとしているわけではない。それなのに彼女が残した何かの記憶に呪縛されている自分がいる。男は、自分と妻のストーリーを描こうとするが、それは言葉にも風景にもならなかった………。
…………
夢の中で、女は自分の痕跡をたどるように老人の邸宅に向って歩き続けていた。
たどり着いたいつもの場所……まちがいなくこの場所だった。でも女が老人に買われていた屋敷は生い茂った雑草に覆われ、廃墟になった空き家だった。門には施錠がなされ、売家と表示されていた。壁にびっしりと這った蔦の蔓が老朽化した邸宅を覆い隠し、過ぎ去ったすべての時間と記憶を封じ込めていた。
彼女は茫然とその場に佇んでいた。通りすがりの老婆が、邸宅にはひとりの老人が住んでいたが二十年前に亡くなり、その後、この邸宅はずっと空き家のままだったことを彼女に語った。
そんなはずはなかった。三か月前、女は確かにここに邸宅に住んでいる老人に買われ、この家に囲われていたのだから。
不意に眼が覚めた。短い夢なのにとても長い時間、その夢を見ていたような気がした。老人に買われていた三か月が過ぎ、女は久しぶりに家に戻っていた。ふとパソコンに目をやると、一通のメールが届いていることに気がついた。
オークションであなたを購入された相手方から、あなたは返品され、契約は終了しました……文字はただそれだけだった。
朝になると女は、老人の邸宅を訪れた。夢は現実だった。
体のなかの空気がすっと抜けていく。老人のものであった自分が、誰のものでもなくなる感覚。老人はすでに亡くなっていた人物だった。ほんとうに自分は彼に買われていたのか。老人の記憶が遠ざかり、失われた時間に閉ざされ、ただ物憂い静謐(せいひつ)に女は晒されていた。
老人に買われた生活……それはただの夢だったのだろうか。女の傍にはいつも老人がいた。妄想の中の老人が。明らかなことは、女が常に妄想の中の亡霊のような老人の所有物であったということだった。