パルティータ(後編)-11
次の瞬間、能面の女は先端が鋭く尖った鈍色の鋏(はさみ)を手にしていた。象牙細工の柄と絡んだ女の細い指が美しい形をしている。男は女の指の残酷な美しさと性器の切断という言葉が交錯し、女の殺気に吸い込まれるような身震いに襲われた。能面の女は彼のペニスの前に腰を低くし、ゆっくりと鋏をペニスに近づける。金属の刃が漂わせる冷気がペニスに纏わりつく。女は鋏の表面で男のペニスをゆっくりと撫でる。なぜか性器を切断される苦痛への欲情が肉体の隅々までさざ波のように拡がり、ペニスは堅さを増し、漲るようにそそり立っていく。それは男の遠い記憶を解き放つような不思議で甘美な欲情だった。
女は小さくつぶやいた。あなたは、やっぱりわたしの記憶の中の男だわ。
ゆらめく鋏の先端が肉幹の血管をなぞり、その冷たさが女の冷酷さと混じりあうように包皮にまぶされていく。男は脳裏に女が手にした鋏で無残に切断される自分のペニスを想い描いた。そして狂わしい酩酊に欲情した。肉幹の先端が喘ぎ始める。鋏の鈍い煌(きら)めきが肉幹に微かに触れたとき、男はペニスの肉芯に烈しい血流を感じた。
や、やめてくれ……声にならない言葉が嗚咽に変わる。女は執拗に鋏の表裏でペニスを撫であげながら言った。
早く自白しないと、どうなるかおわかりでしょう。
女が手にした鋏がゆっくりと開き、ペニスを挟みかける。鋭い刃が微かに肉幹の包皮に触れる。肉幹がしなり、鋏の両刃が少しずつ狭まり、肉幹に徐々に喰い込んでいく。滲み出る透明の先汁が亀頭をしっとりと濡らしている。女は笑っていた……男の憐れな勃起に。
男の頭の中には自白すべき言葉がなかった。凄惨な激痛で男は意識が遠くなるのを感じた。ただ確かなことは、薄くなり、昏(くら)くなる意識の中で、苦痛を与える彼女が、もしかしたら自分が愛した女だという感情だけが仄かな光のように彼の肉体を充たしているということだった。
はぁ………ああっ………うぐぐっ………
嗚咽が男の唇から涎のように零れ落ちた。苦痛は肉幹を烈しい痙攣に導き、彼の射精を烈しく煽る。
自白するのよ……あなたの記憶を………女の声が肉幹の芯を錐(きり)で揉(も)むように繰り返される。肉幹を挟んだ鋏がゆっくりと閉じ始める。その瞬間、男は烈しい射精の感覚とともに、とても深い暗闇の中に吸い込まれるように堕ちていった………。
ふと眼を覚ますと、男は自分が公園のトイレのブースの中で壁にもたれたまま眠っていたことに気がついた。トイレに灯りはついてなかった。黎明の光が高窓のガラスブロックを水彩絵具のように滲ませ、ブースの中に仄かな光を漂わせていた。
汗が全身を湿らせ、寒気がした。ズボンのファスナーから露わになったペニスに烈しい射精の痕を感じた。でも便座にも灰色の床タイルの上にも滴り落ちた白濁液の痕跡はなかった。すべてが夢だったが、自分がどうしてここにいるのか、いったいどれくらいの時間、トイレブースの中の壁にもたれたまま夢を見ていたのかわからなかった。
男はトイレを出ると誰もいない黎明の光に包まれた林の中の公園の中を歩いていった。ここがいったいどこなのかはわからない。公園を囲む鬱蒼とした樹木が光を含んだ霧に包まれている。見あげた空は薄明るい紫色をしていた。
不意に誰かが男に囁いたような気がした。男は立ち止まる。繁った樹木の葉がかさかさと風になびく音がした。ほかに何の音も聞こえなかった。それはまるで自分が現実の世界にいるとは思えないような、ぞっとする静寂だった。
男は周りを確かめるように仄かな光に包まれた憧憬に視線を注いだ。公園には誰もいなかった。ふと背後を振り向いた。すると先ほど出て来たトイレの建物の前に誰かが立っていた。じっと目を凝らす。そこには制服の少女が立って彼を見ていた。見覚えのない顔……投げかけられる無機質な視線がなぜか彼の記憶の底をゆらりと撫でた。
男と少女の視線が不思議に絡み合う。男は少女の視線に夢の中の能面の女の視線を確かに感じた。それがどれくらいの時間だったのはわからない。そして一瞬のうちに少女の影がまるで煙のように男の視界から消えた。目を凝らして見てもそこには誰もいなかった。いや、そもそもその少女はいなかったのかもしれない。ただ男には少女の影が《彼の中に何かの記憶》を甦らせたような気がした。それはとても性的な記憶だった………。