パルティータ-11
「あなたのセックス、とてもよかったわ」と人妻が男の耳元で囁いた。
窓の外は深い静けさに溶けた真夜中だった。すべてのものが暗闇の中で息をひそめ、静けさだけが物憂く澱んでいる。
男と人妻は裸のまま並んでソファに腰をおろし、ワインが注がれたグラスを手にして、お互いが心の中に描いているストーリーに乾杯した。
「わたしはあなたとの関係が特別なことだとは思っていないわ。ただ、ふつうの男と違った《そういう男》が欲しかっただけ………」
「きみは仮面をつけて、男にストーリーを描かせることができる女だ。いろいろな仮面をつけてね。その仮面はどれも魅力的できみにとても似合っている。きみを見えなくする上でね」と男は言った。
「あら、わたしを褒(ほ)めているのかしら、それともけなしているのかしら」
女はそう言った口にしたワインで白い咽喉を淫猥に蠢かした。
「わたしの恋人に初めてなった男に最初にさせたことがあなたにわかるかしら」
「おそらくきみらしいやり方で、その男にストーリーを描かせたことかな」
女は笑いながら言った。
「下着をつけていないドレスの中のわたしのお尻にキスをさせたわ。わたしへの服従の悦びと敬虔さを込めた接吻。そしてわたしだけのストーリーを描くことへの誓いかしら」と言った女の声が、男にはずいぶん遠いところで聞こえたような気がした………。
…………
部屋の隅に置いてある全身が映る鏡の前に立った女は、自分の裸をとても長い時間をかけて眺めていた。五十歳の誕生日を迎えてから一日に何度も鏡の前に佇(たたず)むことが多かった。
鏡の中の女の裸にはいたるところに余分なものがあった。身体の輪郭と部分の境界が曖昧になり、淫らに弛(ゆる)んだ突起と窪みが無防備にあらわになっている。厚ぼったい肉体は、肉体としての意味を翳らせ、ねっとりとした物憂さだけが飢えるように漂っている。
鏡の中の見なれた自分の顔が、まるで他人のようにじっと彼女をみつめている。自分に向って何を語っているのか、自らの物語を綴る言葉がみつからない彼女を嘲笑っているのか……。鏡の中に置き去りにされた五十歳の肉体は孤独の痛みにさらされて、淋しさがひしひしと迫ってくる。
自分の体に真夜中の風が通り抜けていく。肌の染みと皺のすきまに、脂肪が付着した毛穴に、色褪せた子宮の奥に、冷ややか風が流れ込み、肉体を寂しくさせる。空虚さが骨に滲み入り、性器は淫らに膿んでいる。
水槽の中には、一匹として熱帯魚はいなかった。いつ熱帯魚が消えたのか、そもそも一体誰がその水槽をここに置いたのかもわからない。水槽の中に充たされた光だけが虚ろに漂っていた。もしかしたら自分はその水槽の中に、誰かに監禁され、飼われていたのではないかと、ふと女は思った。
囚われた感覚が彼女には必要だった。囚われ、監禁され、飼育され、その誰かが問いつめるように注ぐ視線は、きっと女の心と体のすべての部分に触れ、肌と毛穴を透して骨や血液に溶け、それは肉体の快楽以上に彼女の影に意味を与えるに違いなかった。だから女はいつもあの記憶にたどりつく。これまでに抱かれた男たちの《どんな記憶も残っていない》彼女にとって、白樺の林の中の誰ともわからない視線の記憶だけを甦らせる。
ときどき女が訪れるビルの地下にある深夜のバーには、女とその男以外に客は誰もいなかった。カウンターの中で無口な老店主はいつものように黙々とグラスを磨いていた。店にはバラードを奏でるテナーサックスの音楽がふたりの存在をかき消すように流れている。
男は無機質で色彩のない視線を女に注いでいた。
「ネットのオークションに出品されませんか」
男のその言葉が自分にかけられたものだと、女は思わなかった。
年齢は六十歳前後だろうか。仕立てのいいグレーのスーツを着た男は表情を崩すことなく、あたりまえのように女の隣の席に移動し、彼女に声をかけた。
男の顔は何度かこの店で音は見かけたことがあったが、声をかけられたのは初めてだった。男はもう一度、同じ言葉を繰り返した。
「出品って、いったい何をわたしが出せるというのかしら」と女は言った。
男はごく自然に言った。「あなた自身を出品していただきたいのです」
女は驚いたように男の顔を見た。
「あなたはそういうことが受け入れられる女性だと感じました」と男は表情を変えないまま真面目な顔をして言った。
話はこういうことだった。会員制のオークションで買われた女性は、三か月間、その買主の所有物となり、監禁状態になる。さらに買主が気に入った場合は期間の延長もできるということだった。報酬はかなり高額だった。
「実は、わたくしは自分が監禁したい女性だけにこの話をもちかけるのです」
女は耳を疑った。
「わたしはそういう女ではないわ」と女は言った。
「いや、あなたはそういう女性だと思っています。監禁という言葉は不謹慎かもしれませんが、もしあなたが誰かに監禁されたら、あなたは自らのストーリーを感じる取ることができる女性のような気がしたのです」
男の声には何らいやらしい狡猾さも下心も感じられなかった。女の心の底を包み込むようにくすぐり、疼くような錯覚を呼び覚まし、それでいて不快ではない声だった。
男は、オークションのサイトのURLとパスワードを書いたメモを女に渡すと、初めて笑みを見せ、店を出て行った。