花屑(はなくず)-7
森閑としたふたりだけの店で、わたしが手記を朗読する声だけが流れ、倉橋とわたしだけの記憶が溶け合い、濁り、澱む。互いに確かめ合うほのかな触覚だけが見えないところで蠢いている。
「あなたは、彼の肉体に自分自身の欲望を重ね合わせたわ。あなただけの観念のなかで、《あなたが彼の肉体であること》で、あなたはわたしという女への異質の性愛を現実のものとすることができるという妄想に駆られていたわ」
倉橋はわたしの言葉を聞きながら、もの静かに盃を舐めるようにすする。
「きみが、青年とどんな経験をし、どんな想像をいだこうと、わしはきみの中をけっして覗くことはできないし、あの青年がきみに刻んだ記憶をたどることもできない」
そう言って薄く笑った倉橋の瞳に仄暗い光が澱んだ。
「そうかしら。ほんとうにあなたはそう思っているのかしら。あの青年は、すでにあなたの化身のような存在だったわ。いや、あなたの欲望そのものだった。あなたはあの裸婦像を性的に欲望するために彼に自分自身をゆだねたわ」
窓の外の闇の静けさが店の中に忍び込み、電燈の灯りが静けさに撫でられるようにすっと煌めくと、倉橋の頬の線が清冽で優雅な光で充たされた。
「青年はあなたとわたしのあいだに《必要とされた異質の性の対象》だったわ。そこに生まれる性愛をあなた自身のイデアを寓意として完成させるためにあなたが彼を必要としたということだわ」とわたしは言った。
「わしにとって、きみは初めての異性だった。異性でありながら、わしはきみという女性の求め方を知らなかった……。きみがあの青年の受け入れ方を知らなかったように」
わたしの頬が何かの恥ずかしさに掻きたてられるように微かに火照った。
わたしは倉橋の言葉を拒むように言った。
「光栄だわ。わたしがあなたにとって彼以上の存在になりかけたことが。そう、あくまでも《なりかけた》だけだった。あなたは、わたしという女に対して未知の欲情を知ろうとした。でも、あなたがわたしを意識すればするほど、あなたは自分自身の肉体の不完全さが見えてきた……」
わたしの言葉に倉橋は煙草を咥えたままじっと瞳を閉じていた。
――― 青年は自らの唇をねっとりと女の足先に吸いつかせ、足首へと這わせていく。同時に彼の視線がふくらはぎから太腿の内側を這い上がり、奥深く潜んだ女の肉欲の感触を確かめるようにしっとりとした繊毛に絡め、肉唇の割れ目をまさぐっている。視線は女の熟れた果実の芯に吸い込まれ、甘美に蝕(むしば)まれていく。
湿り気を帯びた彼の薄紅色の舌が女の足指の先をなぞりながら少しずつ押し広げていく。くすぐるように足指を啄み、掬いあげながら舌を足指のあいだに忍び込ませていく。女は長い睫毛の生えぎわを微かに震わせ、美しい黒い瞳を抒情的ともいえるほど潤ませ、滑らかな線を描く巧緻な鼻翼にほのかに光を漂わせている。
女は青年に隷属し、青年は女に隷属する。そして何よりも私が《そこに》いる。女の鼻翼が微かに蠢いたような気がしたとき、青年の視線が彼女の淫唇に微かに溶け合っていく。蛇のようにくねる彼の細い舌先が女の足指のあいだをぬめるように這っていく。彼が注ぐ視線は女の秘裂の溝をなぞり上げながら敏感な陰豆へ微妙な刺激を与えていた。女はねっとりとした唾液を唇の端から滲みださせ、声にならない喘ぎを微かに呑み込んでいった。彼女の息づかいが、彼の胸の鼓動と合わせたようにしだいに荒くなり、ハアハアという絶え間ない吐息が私の耳鳴りとなり、咽喉の深奥に響いている。
青年によって女が悶えているというのに、私の肉欲は少しずつ蕩けるように霞んでいく。女は乳首のふくらみや陰部の潤みを感じながら、咽喉を鳴らし、肉の渇きを癒し、ひたひたと欲情の波に浸されていく。それを見ていた私のかさかさに乾いた肉欲の芯がゆっくりと溶けだし、闇の先にある酩酊に犯されるような微睡みに堕ちていこうとしていた。そのとき私は女の顔が見えていないことに気がついた。私はいつのまにか顔のなくなった女の肉体を追い求めていた。同時に私は青年に対して《不完全な肉体》を感じた。
夢から覚めて、はっと気がついたとき、私の目の前に制作中の青年の像と顔のない裸婦像があった。不完全な肉体、不完全な隷属、そして不完全な性愛。そこには、青年も女も、私自身も存在してはいなかった。ただ、私は勃起することなく夢精によって放出した白濁液によって下半身を濡らしていた……。