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花屑(はなくず)
【SM 官能小説】

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花屑(はなくず)-1

「この店を訪れるのも久しぶりだな……」
倉橋潤一郎はわたしが営む小料理屋〈花屑〉で、盃に注がれた熱燗の日本酒をわずかに啜りながら、独り言のように小さく呟いた。
彼は著名な彫刻家でその名を知られていたが、世間の前に姿を現すことはほとんどなく、彼がいったいどんな人物なのか、ほんとうに知っている者は数少ない。
グレーの皺だらけのジャケットとズボン姿の倉橋は無造作に伸ばした白髪を背中でたばね、小柄で老いているとはいえ、粗野な顔と指の先まで無骨な身体の輪郭は昔と変わってはいなかったが、芸術家らしい獰猛に感じられる瞳の奥に潜む巧緻で鋭い光はあの頃と変わらなかった。
「早いものだな、時間がたつのは……」
わたしは、なめるように這わせられる彼の視線を頬に感じながら、手元で酒の肴を小鉢に盛る。彼がつぶやいた言葉とともに遠い記憶が甘美に、淫らに軀(からだ)の中に浮かんでくる。
「女将は、ところでいくつになった……」
「あなたより十歳年下だから、今年は、六十八歳になるわ。いつのまにか歳を重ねてしまって。もうすぐおばあちゃんね」と笑いながらわたしは言った。
「わしはこんなに老いてしまったが、まだまだ女将は若いよ」
「あら、お世辞でもあなたにそう言われるとうれしいわ」と言いながら、わたしは着物の袖を押さえ、肴の小鉢を彼の前に差し出す。

今夜は珍しく和服にした。なぜならこの着物は、わたしが今は別れた男と結婚したとき、倉橋がわたしに贈ってくれたものだった。昨日、倉橋から久しぶりに連絡があったとき、わたしは箪笥の奥からこの着物を迷うことなく取り出した。
薄い紫地の着物に白い帯。着物には落ち着いた花柄の文様が幻想的に描かれていたが、それがわたしの軀(からだ)に彼が刻んだ遠い記憶を包み込んでいるような気がした。
「どうかしたのかしら」
「いや、久しぶりに見たきみの和服姿がとてもきれいなので……」
「あなたが、わたしに送ってくれた和服だわ。覚えているかしら」
 そのことを彼は知っていたかのように微かに頬をゆがませ、盃をすすった。
「顔を見失った女が、また欲しくなったということかしら」
わたしはゆるやかな笑みを頬に漂わせると、手にした徳利からお酒を倉橋に勧める。彼は小さな苦笑いを浮かべるとふたたび盃の縁を唇でなぞった。
芸術家であることを除けば、どちらかというと倉橋は醜男(ぶおとこ)の部類に入るかもしれない。小太りでずんぐりした容姿は昔と変わらない。それなのに彼に魅了されてきた自分が不思議に感じるときがある。それは今でも変わらない。

「今年も、いつのまにか桜の散る季節になったようだな。それにしてもわしも歳をとったものだ」
倉橋が甘やかな表情を見せながら、静かにつぶやく。
「あの青年が亡くなってから何年になるのかしら。あなたとわたしが彼を失った季節もこんな時期だったわね」
 青年のことを口にするつもりはなかった。でも、倉橋とわたしのあいだには、どうしても《あの青年が必要だったこと》を遠い記憶の中で確かめたかった。

倉橋と知り合ったのは、わたしが結婚する以前、M男専門のSMクラブ「ルシア」を閉じたときだった。わたしが主宰していたクラブ(もともとはわたしより十歳年上のママが主宰していたものだったが、彼女が引退してからわたしが店をまかされたのだった)には当時、数人のS嬢が所属し、それなりに顧客をかかえていたが、プレイルームのある建物が取り壊されることになり、それを機会に店を閉めた。そしてわたしの最後の客になったのがあの青年だった。


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