花屑(はなくず)-10
窓の外の月灯りが、はらはらと舞っていく桜の花びらを蚊絣(かがすり)紋様のように闇の中に描いていく。地に落ちた花びらは切なく花屑となって地面を彩る。
「だからわしは、青年に告げたのだ。永遠にきみの彫像は完成されることはないと。それはあまりに残酷な言葉だった。彼にとっても、わし自身にとっても……」
「あなたは彼が同性愛者であり、あなたを愛していることを知りながら彼を突き放した。ただあなたの欲望のためにだけに利用した彼を……」とわたしは倉橋の横顔をじっと見つめながら言った。
彼はわたしの言葉を拒むように眼を細めた。
琥珀色の時間がゆっくりと流れ、ふたりのあいだの記憶を混じりあわせ、底知れない、奥深い空白の濃さを増していく。そしてわたしたちは青年が残した痕跡を追うようにふたりして窓の外の庭園に散った花屑に同時に視線を向けた。
「わしは青年に鞭の痕を刻んだ女性を密かに想い続けていた。そしてきみという女性にたどりついた」
「あの青年はわたしにとって忘れられない客だったわ。最初で最後だというのに鞭を手にしていたわたしはあまりに彼に溺れすぎたわ。自分でも信じられないくらい。正直に言うとそんな自分がとても怖くなった。そう……自分で自分がわからなくなるくらい」
「青年はきみにとっても残酷な存在だったということか……」
「鞭を手にしたわたしが、彼にそういう女として欲望されていくことは、わたし自分が未知の闇の底に堕ちていくような気がしたわ。そんな感情をわたしはそれまでいだいたことがなかったわ」とわたしはもの思いに耽るように窓の外で静かに舞い落ちる花びらに目をやった。
「わしはきみがどういうふうにあの青年に欲望されたのか、その想像に駆られた。そしてきみの中に残っている彼の記憶の痕を知ることが、青年の像と裸婦の彫像を完成させるために必要なことだった。きみは欲望の終焉としての至福の悦びに男を至らせることができる女だということだ。そしてそういう女として描かれることをきみ自身が欲望していたのではないか。ただ、これだけはきみに言っておきたいが、性的に不能なわしは青年の肉体を通して、あの頃、顔も知らなかった夢想のきみへの性愛をあの裸婦像を通して実現しようとしていたかもしれないことを……」
「でも、あなたはあの顔のない裸婦像を完成させることはできなかったわ」
わたしは倉橋の顔をいたわるように見入った。
彼はまるで自分の中の暗く、奥深い空洞を見ているようだった。わたしが知らない、けっして知ることができない濁りのない空洞に漂う記憶の匂いはわたしをどこか遠くへ遠ざけていた。
「あなたの中の夢想の女っていったい誰なのかしら」
「あの青年の彫像が未完だということは、わし自身の心と肉体が永遠に未完だということだ。だからわしは、きみという女性にたどりつくことはできなかった。たとえきみがわしの中の夢想の女性だったとしても……」と彼はひとり言のようにつぶやいた。
「あの青年は、いまでもあなたとわたしの記憶の中にどうしても必要な人物だったわ。そして必要とされた彼自身の存在が彫像とされることに意味などないことに青年は気がついたわ。だから彼は自ら命を絶った……」
わたしはそう言うと静かにため息をついた。
強い風が吹いたのか、庭の樹木の枝から花びらがいっせいに舞い上がる。月灯りを含んだ花びらが煌めきながら、幾重にも重なり、遠い時間を吸い込んでいく。
まどろんでしまいそうな物憂い気だるさが、ふたりのあいだに不思議な沈黙を運んでくる。わたしは倉橋という男の前で不意に自分の顔を失ったように感じた。そのとき彼の無骨な手が肩を抱き寄せた。
「今夜はゆっくりできるのかしら」
「ここに泊まっていってもいいか」と倉橋は言った。
わたしは彼の横顔にじっと視線を注ぎ、うなずいた。