リーフェンシュタールの結婚(後編)-9
ターレン王国の伝承や噂の語り部は、村で産婆を生業とする女性たちである。リヒター伯爵領のトレスタの街には、産婆が暮らしていない。ベルツ伯爵領のザイフェルトが暮らしていた村で、酒を撒いて鎮めの儀式を行っていたのも産婆であった。自分の手で産まれるのを助けた子を、我が子のように思い、自分よりも先に命を落とせば親のように悲しむ。産婆にとって貴族と平民の階級は関係ない。同じように交わり、孕み、産む。産まれてくる子はみな我が子のように思う。どの孕んだ女が産んだ子か、その子がどのように生きたのか、産婆は語ることができる。
学者のモンテサントは、官僚を目指し、ゼルキス王国に魔法技術があるように、ターレン王国に伝わる呪術を調べているうちに、産婆たちと語らい、王国の歴史や法について考えることになった。今はリヒター伯爵領からパルタの都に移り住み、産婆のような役割を行っている人物であった。彼がリーフェンシュタールの母親を説得できなかったことを後悔していた産婆から堕胎の呪術を学び、リヒター伯爵領から離れた時、その産婆が知るリヒター伯爵領に残る昔話や噂もまた、その一部が失われたといえる。産婆の役割の者が亡くなるたびに、産婆が産むのを助けた子たちの歴史は失われていく。モンテサントは自覚していないが、住人たちの制圧者への恐怖の影響を受けない地へ移り住んでいた。
ヘレーネが住人たちの心の底に潜む制圧者への恐怖に気づいたのは、感応力よりも、別の時代の別の土地で生きた前世の記憶がある異邦人だったからである。
産婆の役割の者らが、身分で人を考えないように、ヘレーネは前世の記憶を元に今の生きている世界を考える時、違和感を抱くことができる。モンテサントが強い感応力があれば、リヒター伯爵領の住人たちの心に潜む恐怖が、この土地に暮らす者たちに、影響を与えてきたことを知ることができただろう。
リーフェンシュタールの母親の産辱やリヒター伯爵が呪詛されることまで、地脈の護りの隙のような悪影響を与えてきたのは、住人たちの気づいていない心の中に潜む制圧者へ恐怖によるものである。
ザイフェルトが気づいたように、リヒター伯爵領はベルツ伯爵領よりも、貴族階級の者と平民階級の者の婚姻や交わりが進んでいる。それは、心の中に潜む制圧者への恐怖をゆっくりと緩和させており地脈を利用した浄化が、他の伯爵領よりも効果があらわれているのである。
ヘレーネがレチェを連れて宿屋に戻った時、子爵シュレーゲルと思いがけず再会することになった。
ベルツ伯爵がヘレーネを産んだアリーダを伴侶として求めたことも、子爵メルケルが半分は平民の血筋を継ぐ人妻フリーデを犯したのも、自覚せずに制圧者への恐怖を緩和するように行動していたと考えるとヘレーネには納得できる。
ヘレーネはベルツ伯爵の血を半分継いでいる肉体を持って産まれている。
ヘレーネが出奔したあと、平民の血筋を半分継いでいる人妻フリーデに執着したのも、制圧者への恐怖が緩和されるように子爵シュレーゲルが行動している気がした。騎士の末裔のザイフェルトは伯爵の血筋よりも混血が行われ、感応力は弱い。フリーデの半分の貴族の血筋を緩和するのには、子爵シュレーゲルよりもザイフェルトのほうが適している。
だから、人妻フリーデは子爵シュレーゲルよりもザイフェルトを選ぶ。
(シュレーゲルは、なんで自分とは関係ないはずの住人たちが抱える制圧者への恐怖に、自分の恋心まで影響されていること気がつかないのかしら?)
貴族として育て方られた考え方では、平民階級の血筋の女性では遠すぎる。恋の対象に思えない。
しかし、緩和のためには、貴族階級の血筋の女性では近すぎる。だから、貴族階級と平民階級の血筋を半分ずつ持つヘレーネや人妻フリーデを子爵シュレーゲルは伴侶として求めてしまう。
ザイフェルトは子供の頃に貴族の血筋の子供として祟られ、アリーダによって命を救われている。そのまま平民階級の女性と恋をして婚姻していれば貴族の血筋を緩和するために安全に生きられるはずが、貴族の血を半分持つフリーデと婚姻したことで、制圧者の末裔の血統としての影響を受け、命の危険にさらされ続けるのだろう。
しかし、ザイフェルトは自分の心で行動している。恋や宿命を、自分で選択している。本人は気づいていなくても、見えない力に抗って生きている。
人妻フリーデが、子爵シュレーゲルと関係を持った事も興味深い。人妻フリーデが半分貴族の血筋でも、平民階級の血筋には心の底の恐怖があるはずなのに、貴族の血筋の子爵シュレーゲルを拒否しなかった。つまり、人妻フリーデもまた、見えない力に抗っているのである。
(過去からの因縁や他人の都合に縛られて、恋や運命を決められるなんて許されざること。せめて、心だけは人は自由であるべきだわ!)
カルヴィーノが子爵であることも知らずに、自分の血筋も意識するほどわかっていないシナエルが、自分の恋心だけを信じて、リヒター伯爵領まで来た事にヘレーネは感心した。
子爵シュレーゲルは血筋の因縁に縛られている。今の時代に産まれてきた性別の違う肉体に悩む子爵リーフェンシュタールも、前世からの想いに縛られている。もし女性として産まれていたら、前世の恋人シモンであるカルヴィーノに恋をせずに、血筋の因縁に縛られて別の血筋の半分は平民の相手に恋をしていたかもしれないとヘレーネは考えた。
貴族と平民階級の因縁とは無関係の獣人娘のアルテリスと恋をしているテスティーノ伯爵。
その息子だけあってカルヴィーノは、祓魔師なだけではなく、王国の住人たちの抱える制圧者への恐怖が起こす、血筋の因縁に抗う心の力も、とても強いようである。
(だけど、カルヴィーノは前世の恋心には自由なのかしら?)
シナエルを宿屋に監視して滞在させ、ブラウエル伯爵領のレルンブラエの街へ帰さないのは、リーフェンシュタールとカルヴィーノが、恋の葛藤から選んだ事のようにヘレーネには思えてきた。