銀の羊の数え歌−11−-2
何としてでも、今日のうちに琴菜に会っておきたかった。何を話せばいいのか、何から話していけば彼女が納得してくれるのか、そんなことを考えている余裕なんてこれっぽっちもなかったけれど、とにかく会わないことには帰るわけにもいかない。
今まで、電話の一本も入れなかったというのに、ずるい話だと思う。きっと、その間中、琴菜は僕からの連絡を切々とした思いで待ち続けていたに違いないのだ。
車から降りると、僕はせりあがってくる感情の波を押さえながら、入り口のチャイムを鳴らした。
聞き慣れたメロディーが鳴り終わった後も、ゆっくり十秒は待ったと思う。
けれど、目の前に立ちはだかるドアは、僕をかたくなに拒絶するかのようにわずかでも動くことはなかった。
のろのろと後ずさり、きびすを返す。
車に戻って、二階の琴菜の部屋を見上げる。 並んだ窓には、両方ともしっかりとカーテンがかかっている。
大きなため息がもらしながら、諦めて車のドアに手をかけた。
その時だった。
偶然、顔をあげた先に、大きな買い物袋を両手にぶら下げた琴菜の姿を見つけた。
彼女が、僕に気が付いたのもそれとほぼ同時のことだったと思う。琴菜は、まるでいけないものでも見てしまったような顔で、ピタリと足を止めた。
あれほど晴れわたっていた空も、今は灰色の雲にびっしりとおおわれて、地上にわずかな光も落とさない。まるで、僕らの関係の行く先を暗示しているかのように、しだいに闇が色濃くなっていく。
僕は琴菜の家の門に寄りかかったまま、隣りでしゃがみこんでいる彼女を見下ろした。
この態勢のまま、いったいどれだけ時間がすぎただろう。五分や十分くらいのような気もすれば、一時間もたったのではないかという感じさえする。
どうしても話したいことがあるからと言って、買い物帰りの琴菜をどうにかつかまえたものの、何から話せばいいのかさっぱり分からない。柊由良のことは誤解なんだ
と言っても、言葉にすればなおさら言いわけがましくきこえるし、かといって、真壁からきいたことをいきなり切り出す勇気もない。とにかく、僕からなにか言わない限り、彼女はこのまま黙り続けるのは確かだ。
「悪かったよ」
僕は考えに考え抜いて、ようやく一言押し出した。
けれど、琴菜は何も答えなかった。そればかりか、顔を伏せたまま、僕の方を見ようともしてくれない。
たまらなくなって彼女の前に、しゃがみこむ。
「琴菜」
ささやくように、呼びかける。
「なぁ、どうしたんだよ。確かにケンカして、そのままお前をほっといたのは俺が悪かったよ。でもさ、なにもそれで俺たち二人の関係がだめになったって考えるなんて、おかしいよ。これまでだってたくさんケンカはしてきたけど、ちゃんと仲直り出来たじゃないか。もう何年一緒にいるんだよ、俺たち」
それでも、彼女は黙っていた。
再び降りてきた沈黙が、僕の耳には、ひたひたと近づいてくる破局の足音に聞こえた。
「……琴菜」
ほとんどすがるような気持ちで、もう一度、彼女を呼ぶ。
「顔をあげてくれよ。なぁ」
すると、そこで初めて、彼女が伏せていた顔をゆっくりとあげた。意外にも、瞳に涙は見当たらなかった。ただ、今までに見たこともないような、笑顔が浮かんでいた。そして、それを目にした瞬間、僕は自分の中で、なにかがぷつりと音を立てて切れるのをきいていたのだった。
琴菜は、まるで「また明日ね」とでも言うような口調で、あっさりと言った。
「別れよう、私たち」