キスのその先へ-1
日付が変わる頃に家に帰ると居間の明かりが点いていて、母が起きていた。ミソラは明日も勉強とバイトが忙しいようで、とっくのとっくに寝たらしい。
「またずいぶん遠いコンビニまで行ってたみたいだね。まあいいけど、遅くなるんなら電話くらいしなさい」
それだけ言うと母は息子の返事も待たずに寝室に引き上げ、僕は着替えを持って風呂場に向かった。体が臭う。そこには七瀬アイの匂いも混じっていた。
今日はいろんなことがあったな、と僕はぬるめのシャワーを浴びながら一日を振り返った。こんなにも充実した時間を過ごせたのはいつ以来だろう。今までの自分が如何に無駄に時間を費やしていたのかを思い知らされた。
そうか、七瀬アイはあの時の女の子だったのか。そんな彼女も今では素敵な女性へと成長して、忌まわしい過去とも向き合いつつ、僕のすべてを受け入れてくれたのだった。
「イツキ先輩とならしてもいいよ……」
キスの後、彼女は視線を逸らしながらそんなふうに言った。僕は戸惑った。彼女の繊細な肌に触れた途端、取り返しのつかないことになるのではと気持ちを鎮めたのだ。
「七瀬、あのさ……」
言いかけて、飲み込んだ。そんな僕の内心を見透かすように、彼女は吐息をついた。
「あーあ、やっぱりだめかあ。そうですよね。あたしって胸も小さいし、処女じゃないし」
「そんなこと言うなよ!」
誰かの声がした。いや、それは僕自身が発した感情的な声だとすぐにわかった。こめかみのあたりで血管が脈打っている。
「そうじゃないだろ。僕の好きな七瀬はそんなことは言わない。冗談でも自分を粗末にするようなことは言わない。AB型で、二十一歳で、右利きで、魚座で、特技は料理とお菓子作りで、好きな季節は夏。僕が好きになった七瀬はそういう女の子なんだ」
ひとしきり言いたいことを言った後、肩の力がふっと抜けていくのがわかった。でもそんなに大したことを言ったわけでもなく、僕は恥ずかしくなった。
「ありがとう、おぼえててくれて……」
涙に溺れるようにして彼女は微笑んだ。
「嬉しいのに涙が出るなんて、あたし、どうしちゃったんだろう……」
必死に指で拭うけれど、涙は後から後から溢れてくる。あの頃と同じように、僕はまた彼女を泣かせてしまった。「ごめんなさい」を言う代わりに、彼女の気持ちに応えてあげなきゃと僕は思った。
「七瀬……」
僕は彼女に覆い被さった。唇同士が触れ合うと、彼女は静かに瞼を閉じた。濡れた睫毛が微かに震えて、甘い匂いのする髪は汗を含み、しぜんな流れで彼女の胸のふくらみを抱きしめる。
「ん……」
恥じらう鼻声は記憶するにとどめておく。僕らはそのまま先に進んだ。時には彼女の体に触れ、花芯を愛撫し、身悶えする肉体のあらゆる部分に悦びを与えもした。
彼女の体は僕のすべてに敏感に反応してみせた。交わる時でさえ、彼女は消極的な仕草を見せなかった。彼女の温もりのいちばん奥深くでつながったまま、僕らはお互いを高め合い、むさぼり合った。
途中、彼女は何度か達したようだった。それなのに僕が体を離そうとすると、甘えた声を出して首にしがみついてきた。もっとしようよ、と彼女の顔に書いてあった。いつかの列車で僕が落書きされたのと同じで、彼女の頬にはハート型が浮かんでいるように見えた。
そうして愛の営みが済んで着衣の乱れをととのえた後、僕は七瀬アイと約束を交わした。今度二人で遊園地に行かないかと誘ったところ、絶対に行く、と彼女は目をかがやかせた。
そういえば僕らはまだデートらしいデートを一度もしていなかった。彼女さえ良ければ、海水浴とか花火大会にも行きたいかな。秋には登山して、冬には温泉旅行に行くのもいいかもしれない。春はやっぱりお花見だよな。
「今、何を考えてたんですか?」
妄想の中に彼女の声が割り込んできた。僕は我に返り、何でもないというふうに首を横に振った。うん、何でもないんだ。
「言い忘れてましたけど、あたしの家、門限に厳しいんですよね。お父さんは怒ると怖いし、お母さんはもっと怖い人だから、近くまでちゃんと送ってくださいね」
浮かれていた気分を一蹴する、七瀬アイの目の覚めるような言葉だった。
「ああ、そうだね、努力するよ……」
現実はそんなに甘くはないか。恋愛は檸檬みたいに酸っぱいくらいがちょうどいいのかもしれない、と僕はおどけて丘を下った。