残されたテレフォンナンバー-1
僕の脳内はすこぶる渋滞していた。いざという時のために温存させておいた脳みそをいきなり使ったものだから、余計な情報ばかり詰め込みすぎた脳が故障し、警告を発している。
「うーむ、どうすっかなあ……」
スマートフォンに表示させた十一桁の番号をむむむと睨み、昨日の出来事を思い出す。発信履歴に残されたその番号は、七瀬アイの携帯電話のものに違いなかった。ほかでもない、彼女自身が操作したのだ。
夕べ、削除すべきかどうかをベッドの上で悶々と考えていたのだけど、彼女と繋がる唯一の糸を切ることが僕にはどうしてもできなかった。それに彼女は、別れ際にこんなことを言っていた。
「それじゃあ、また」
あれは、また会いましょう、という前向きな意味の言葉だったのではないか。連絡先を教えたからいつでも電話してください、と解釈できるのではないか。
何年振りの恋患いだろうか。いや、食欲はあるからどこも患ってはいない。しかもたっぷり九時間くらいは熟睡できたし、朝から股間の息子も元気はつらつに起きている。
「イツキ、朝ごはんだよ」
階下から母の声がする。僕はのそのそとベッドから這い出し、簡単に着替えを済ませると、洗面所の鏡に映る寝惚けた男と対面してから食卓に着いた。テーブルには厚焼き玉子と焼き鮭が乗っていた。
「あのさ、この町内に七瀬って苗字の家があると思うんだけど、母さん知ってる?」
湯気の立ち上る白米と鮭を頬張りながら僕は訊いた。やっぱり朝は和食に限る。
「さあどうだったかしら、町内と言っても広いからね。どうして?」
「いや別に、訊いてみただけ」
お新香に箸を伸ばす。僕がそれを口に放り込むよりも早く、母は言った。
「ミソラに訊いてみたら?」
その手があったか、と僕は二つ歳の離れた妹の存在に感謝し、さっさと朝食を済ませて電話をかけるとすぐに繋がった。妹のミソラは、実家から専門学校に通いながら商店街にある小さなベーカリーでアルバイトをしている。
「今、バイト中で忙しいんだけど」
「悪い。ちょっと人探しをしててさ」
僕はかいつまんで事情を説明した。七瀬アイという女の子が同じ学校にいなかったか思い出してみてくれ、と興奮しながら頼んだのだ。七瀬アイと同じく妹も二十一歳になる。
するとミソラは、あんまり自信はないけれど、と前置きしてからとても興味深いエピソードをしゃべってくれた。
「あの子かなあ。小学生の時にあたしと同じ学年に女の子が転校してきたんだけど、またすぐに引っ越しちゃって。確かその子の名前が七瀬さん……だったような気がする」
でかしたぞ妹、と僕は拳を握りしめる。だとしたらミソラの卒業アルバムのどこかに写真が残っているかもしれない。僕はその旨を妹に伝えてアルバムの在処をたずねた。
「バイトが終わったら探しておく。それまで待って」
「今すぐ見たいんだよ」
「だめ。言っておくけど、勝手にあたしの部屋に入ったらぶっ飛ばすからね」
こうなると何も言い返せない。一方的に通話を切られ、僕はふたたび頭を抱えた。七瀬アイ本人に確かめれば済むことだけど、やっぱり電話をかけるとなるとそれなりに心の準備もいる。
今回の帰省にしたって親に顔を見せに来ただけにすぎず、とくに予定もない僕は暇を持て余していた。だからと言って七瀬アイも空いているとは限らない。土曜日だし、きっと何か予定を立てているだろう。
彼女を知る手がかりが見つかればいいと思い立った僕は、スマートフォンと財布をポケットに突っ込んで家を出た。すぐそばに港の見渡せる丘があるのを思い出し、まずはそこに向かう。そういえば夏には花火見物もできたっけ。
丘へと続く急勾配の坂道を進んで行くと、広大な海の広がる最高のロケーションが眼下に望めた。視界を遮るものが何もなく、ここに来ると地球の一部になったような気分になれる。
「うん?」
ポケットのスマートフォンが震える。誰だろうと思って取り出した瞬間、僕の脳内の渋滞はいっぺんに解消された。もう何度も見たその番号を、僕はすでに一桁も間違えることなく暗記していたのだった。