愛人-5
彼にどんな言葉を最初にかけたのかは憶えていない。脳裏に描いていた想像だけの彼のあいまいな像が、檸檬のソーダの気泡のようにわたしの肉体の中でふつふつと浮かび上がり、それはやがてはっきりと目の前の男の像と不思議にかさなっていった。
彼は、突然、わたしに声をかけられ、一瞬、戸惑ったようにぎょっと目を見開き、わたしの身体を眺めまわした。足先から髪の毛先まで、輪郭のどんな翳りも見落とすことなく。まるでわたしは、心の奥底まで身体検査をされているようだった。なぜなのか、わからなかった……すぐにふたりの中の何かが自然に絡みあうことが。偶然に出会った男と女が初めて言葉を交わしたというのに、わたしたちは互いの中にあるものを動物的に嗅ぎ合った。
たわいもない会話を交わしながらも、わたしは自分の心に向けられた彼の視線を敏感に感じ取った。これまでどんな男の視線もこれほど敏感に感じたことがなかったわたしにとって、それはとても不思議なことだった。彼の視線と声は、わたしの中を芳香で充たし、甘美なものを紡ぎ込み、心と軀の奥に潜む翳りから体温を吸いこんでいった。
何度か、早朝の喫茶店で会話を交わすうちに、わたしたちはどこからか吹いてきた風が交わるように心を溶かしていった。食事をともにし、音楽会や美術館に誘われ、ときに、早朝の誰もいない公園から波止場に降りるゆるやかな並木道を、まるで睦ましい恋人同士のように散策した。
彼は自分が結婚しているとは言ったが、夫人のことについては、ひと言も話をすることはなかった。わたしは彼の愛人になることを忘れていた、いや、愛人なる以上にすでに彼に魅了されていた。わたしは彼を特別な男として、彼はわたしを特別な女として意識していることがわかった。
わたしたちは、互いの手を握り、指を深く絡め合った。首筋に、胸に、そして脚の先まで触れてくる彼の視線はわたしの心とからだの記憶をほぐし始めていた。そこには彼の愛人となることを拒む理由はどこにも見あたらなかった……。
ある日、わたしは森の湖畔の別荘に案内された。その場所はあまりに近かった……小さな湖畔を挟んですぐ目の前に鬱蒼と茂っているあの森に。
死んだ叔父が密かにぼくに残してくれた別荘なんだ。いいところだろう、今夜はきみとここで過ごしたい。いいんだ、妻は、週末は必ず家をあける。妻はぼくがどこで何をしているのか知らない、それにぼくは、妻がどこで何をしようがかまわない。たとえ、ほかの男に抱かれていても。ぼくたち夫婦がお互いの行動に関与しないことは暗黙の了解なのさ。彼はそう言いながら小さく笑った。
彼は、わたしのために食事を作り、広間にあるグランドピアノで得意にしているジャズのピアノを弾いた。素人とはおもえないほどピアノはとても上手かった。そしてあの森が見える別荘のテラスでワインを口にしながら語り合ったが、わたしはまるで森に見られているようで落ち着かなかった。
テラスで珈琲を飲んでいるときだった。彼がわたしの目の前で古いグラビア誌を開いた。マニアックなアダルト系のグラビアだった。まさか、彼がそんな古い雑誌を持っていることが意外だった。
「最初は、わからなかったよ。この写真の中の女性がきみだということに」
彼は真顔で表情を崩すことなく言った。そのグラビア誌には、わたしがまだ若い頃の写真が掲載されていた。黒革のボンデージに身を包み、鞭を手にした姿……写真の中の女が遠くに感じられ、自分でないような気がした。
「有名な高級SMクラブの女王様か……意外であって、意外でないきみの姿だろうか」と、彼はきわめて冷静につぶやいた。
「とても若い頃の写真だわ……」
微かな恥ずかしさがわたしの中に込み上げてきた。遠い過去の自分を見られることは、自分の裸の裏側を見られているような恥ずかしさにわたしを晒した。
「きみは男たちの想像をかきたて、彼らに作られた人形のように操られことに快感をいだいた……たとえ彼らの背中に鞭を振り降ろしたとしても」
「こんなわたしだったら、嫌いになったかしら」とわたしはさりげなさを装いながら言った。
彼はにっこりと笑い、グラビア誌の次のページを開いた。
「もっときみらしい姿かな。ぼくは、ますますきみが好きになった……」
写真は、黒いボンデージ姿のわたしが首輪をされ、手首と足首に革枷を嵌められて床に跪いた姿だった……。