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愛人
【SM 官能小説】

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愛人-4

――すべては、いつもの夢だった……。

 これまで、こんな気持ちで男性を想ったことはなかった。わたしは、恋の予感に深く心をゆだねていくことに臆病だった、自分の心を見て見ぬふりをして時間だけが通り過ぎていった。
それはただ怖かっただけじゃないの……記憶中の彼を失うことが……それはわたしの中でずっと繰り返されてきた自問だった。
 わたしは記憶の中の男に怯えながらも、恐る恐る彼との甘美な恋を夢見ていた。彼は二十数年前にわたしを奪った男……十七歳だったわたしを、深い森の中で無理やり犯した男。それなのにあのときからこれまで彼を慕う矛盾を仄かな純潔としていだき続けている。あのとき、わたしは森のなかであの男に犯されたというのに、顔はどうしても思い出せなかった。肉体の記憶はあるのに、なぜか顔だけがわたしの記憶から削り取られていたのだ……。

誰もいない森の中でその男が切り株に鋭く尖った斧(おの)を黙々と振り下ろす姿を毎日のようにわたしは遠くから樹木に隠れるように見ていた。彼は薪を作るために斧を手にしていた。大きな樹木が切り倒された根元に突き刺さる斧の鋭利な先端……そこから発せられる音が森に木霊し、まるで森の呪縛を生々しく解いていき、なびいた樹々の葉から雫をこぼれさせた。
三十歳を過ぎたような年齢の男は、いつも上半身裸で腰だけを白い腹巻のような褌(ふんどし)で覆っていた。首筋から拡がる厚い胸郭と引き締まった腹部、汗の光沢を溜めた背中、たくましい腕と地面を踏みしめた太腿、彼の身体のすべてが熱く美しい筋肉の隆起を示し、胴体の輝きを露わにしていた。わたしは生まれて初めて感じた異性の肉体に眩暈がした。咽喉元が息苦しく喘ぎ、動悸が止まらなかった。

わたしは彼に犯されたとき以来、これまで誰ひとりとしてほかの男に抱かれたことはない。抱かれたいとも思わなかった。切ない強がりは、それでもわたしを癒し続けていた。わたしは奪われたことで自分の《処女性の喪失という記憶》を自分中の堅い殻に封じ込めた。
時間だけが過ぎていった。どこにいるときも、何をしているときも、目覚めているときも、深い眠りに堕ちているときも。そして、わたしだけの密室のような森で、月灯りに照らされたベールのような薄靄の鏡の中に浮かび上がる自分の過去だけを、いや、彼だけを想い続けていた。いつかあらわれると思い込んだ彼を待ち焦がれ、通り過ぎていく男たちの背中を見て、ため息をつき、いつのまにか彼の感傷にひたった。
その繰り返しがあなたそのものじゃないのかしら、いつもあなたは心とからだの矛盾を噛みしめているわ、あなたは自分の心に素直じゃないのよ……わたしは、繰り返し自分自身にそう言い続けた。

森の樹木から滴る雫の音は、わたしの軀(からだ)を淫らに欲情させる。わたしはその雫を必要とし、雫は、わたしだけのものである必要があった。だからわたしはこの深い森の中で裸にさせられ、煌々と射してくる、とても耐えらないような、おぞましい月灯りに晒される。そして、光によって隅々まで浮かびあがった軀は、雫によって眺め尽くされ、したたる雫の音で弄られる。  
溜めすぎた欲情で色褪せた肉体を、寂しげでざらつく肉体を、そして、欺瞞に充ちた処女性の喪失を恥ずかしげもなくあらわにした肉体を、雫の音はとても冷たい驕慢さで嘲笑い、汚そうとする。それはわたしをこの上ない淫蕩な解放感と陶酔に浸らせる。
 

キミエ夫人の夫である津村さんに声をかけたのは、一週間後だった。
早朝のカフェは、日曜日ということもあって客はまばらだった。わたしは早朝の散歩を装い、彼に近づいていった。彼がキミエ夫人の夫であることは、ひと目でわかった。白いものが混じった艶やかな髪を微かに乱した彼は、年齢のわりにはがっしりとした骨格をもち、中年の男の色気さえ匂わせる広い胸郭を黒いシャツに身を包み、ランニング用のショートパンツを身につけ、白いソックスとジョギングシューズをはいていた。
彼は下半身から伸びた、よく鍛えられた脚を組んで、夫人が言ったとおり、カフェの屋外テラスの片隅のテーブルで檸檬ソーダを前にしていた。堅固な顔の輪郭ながら柔和な印象を受けた津村さんの瞳は、研ぎ澄まされた自意識が抑制されたようでもありながら濁りのない鳶色の甘美な光を湛え、優美な頬の線と魅惑的な鼻梁をもった端正な顔の中の、何よりもヒリヒリするような太陽の光をじわじわと焼きつけてくる声を予感させる唇にわたしは吸い込まれるように魅了された。そうでありながら、彼の視線も、唇も、指も、身体も、どこか危うい印象を与え、わたしの心と肉体をゆるませ、遠く懐かしい記憶をくすぐった。わたしはその記憶がいったい、いつのものなのかわからなかった。


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