愛人-3
「あたしたち、結婚してから二十年近くなるの。知人の紹介でお見合いだったわ。遅い結婚だったけど、いつのまにかお互い歳をとってしまって。今さらこんなことを言うのは恥ずかしいくらいだけど、あたしたち、結婚してからこれまで、一度としてセックスを交わしたことがないの」
わたしは意外な彼女の言葉に戸惑いを隠せなかった。長い沈黙がふたりのあいだを縫うように流れていく。
不意に夫人は笑った。そして周囲に聞こえないほど小さな声で囁いた。
「夫は男として肉体的に不能なのよ。結婚してからあたしの肌に、少なくとも性的に触れたことは一度もないわ……」
わたしは頬に微かな火照りを感じながら、夫人の視線を避けるように珈琲を手にした。
そんな嘘が自分の口から零れるとは思わなかった。「わたしは男性経験がありません。これまで恋人らしい男性もなく、一度も結婚をしたこともありません」
もしかしたら、わたしはその言葉を嘘であるとは思っていなかったのかもしれない。十七歳のあのときから、わたしは自分の中に潜み続ける記憶の中の《処女性の喪失感》に悩まされ続けてきた。あの出来事がわたしの心と肉体において、ほんとうの現実だったのか、夢だった今でも定かでないことがもどかしく感じることがある。そのことがわたしにどんな男性との交際を拒ませた。好意をもった男性もいた、恋をしなかったわけでもない、でもわたしは、これまで男性に抱かれたことはなかった、抱かれることを拒んだ。
キミエ夫人の眼はわたしの戸惑いをくすぐるようにまっすぐに伸び、すっと焦点を結ぶと、しばらく動かなかった。何かをじっと考え込んでいるようだった。
「そうだとしても、あなたはあたしが考えたとおり、夫の愛人にとてもふさわしいと思うわ……」
わたしは、夫人の言葉を理解できなかった。忍びやかに突き刺さるような声を避けるように眼を伏せた。
「夫はあたしを抱けなかった。だからあたしは浮気をしたわ。どんな男とも寝ることができた。でも、男に抱かれているとき、夫という存在が纏わりついてきた。振り払えない夫の存在があたしを苦しめてきたわ、あたしの軀(からだ)に触れようとしない夫の存在が。でも、離婚することはなかったわ。なぜなら、夫という男をもっと知りたいと思い続けていたから」
キミエ夫人は、灰皿で燻っていた煙草を指に挟むと深く吸った。
「あなたが夫の愛人になってくれたとしても、もちろん、あなたの存在をあたしは知らないことにして、夫に愛人がいることなんて考えもしない素振りを見せるわ」
そう言って微かに笑みを浮かべたキミエ夫人は、ハンドバックに手を入れるとかなり厚くふくらんだ茶封筒をテーブルの上に置いた。
「けっして多い金額じゃないけど、これで愛人になることを引き受けてくれないかしら。もし、あなたが夫のことを気に入らなければ返していただければいいわ」
夫人は、夫が日曜日の早朝、家からそう遠くないこの公園のまわりをジョギングしたあと、必ずこのカフェに寄り、屋外にあるいつも決まった席で檸檬ソーダを飲むことを習慣にしていると言う。そのとき、夫に声をかけて欲しいということだった。
「けっして夫は、あなたを拒むことはないはずだわ」
「どうしてそう思われるのでしょうか」
夫人は笑いながら言った。「夫はあなたを必要とし、あなたもまた彼を必要と感じるにちがいない……あたしの感は外れることはないのよ」
暗い森の先は、やはり誰もいない闇だった。わたしは、今夜もこの森にやってきた。でも彼はいない。もしかしたら彼はわたしを捨てたのかもしれない。あれからもう二十数年がたつのだから彼はきっとわたしのことを忘れているに違いない。あんなことをわたしにしたのに。あのとき以来、彼のことが忘れられなかった。だからといってわたしが彼のものであり続けるわけがない。
さまようように森のなかを歩き続ける。何も身に纏うことなく、まるで森で生まれたような姿で。夜露に濡れた草を踏みしめ、森の匂いを嗅ぎ、耳を澄ます。遠くで野鳥が物憂げに羽ばたく音、誰もいない道に枯れた小枝が落ちる音、かさかさと風が樹木の葉を囁かせる音、そして、どこからか聞こえてくるすすり泣きのような音。それは、樹木の高枝からしたたる雫(しずく)の音だった。その音は懐古的な美しい響きをもって奏でられ、わたしの心と軀をくすぐった。
でも、耳をすましてもやはり彼の足音なんて聞こえない。不意に樹木の陰から彼があらわれるような気がした。もし、そうだったら、わたしの胸はあの頃に戻って思春期の少女のように彼に向ってはじけそうになるに違いない。