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愛人
【SM 官能小説】

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愛人-2

………

 彼は、赤信号になった交差点を左にハンドルを切った。ビル街をあとにすると、港の傍を通り過ぎ、トンネルを抜けるとゆるやかにカーブした海岸線を走る。わずかに開けた窓から秋の気配を含んだ風が、助手席に座ったわたしの頬を優しく撫でる。いつのまにか人の気配のない細い山道を進んでいくと、目の前に小さな別荘が黄昏の夕陽に染まっていた。
 湖が見える林の中にその別荘はあった。そこは、わたしが彼の愛人として週末をすごす場所だった。蔦の絡まった古い家の中は小奇麗によく手入れがしてあったが、外のテラスから眺めた風景にわたしは目が釘づけになった。なぜなら湖の先には、わたしがけっして忘れられない森があったのだ。
なぜ、そこにあの森があるのか……記憶の中の森は、現実のものとなって息苦しくわたしに迫ってきた。そして、その場所が彼にとっても《意味のある森》だということを、そのときのわたしは知る由もなかった……。



 ――夫の愛人になって欲しい……艶やかな白髪の夫人は、わたしにそう言った……。

その見知らぬ夫人に声をかけられたのは、半年前のことだった。
土曜日の朝、青々とした芝生の公園の片隅にあるカフェはいつもの若いカップル以外に客はいなかった。わたしは店の一番奥の席で文庫本を読みながら、いつもの珈琲を口にしていた。
いつのまにか目の前にいた和服姿の女性の視線に吸い込まれる。年のころは七十歳くらいの慎ましやかな夫人をわたしはここで何度か見かけたことがあった。どこか物憂い表情は、冷たい印象さえ受けた。背筋がすっと伸びた、艶やかなベリーショートの白髪と皺が埋もれた冷たい顔肌をした夫人は、誰も気がつかないほど静かにわたしの前の席に座った。ほっそりとした顔のなかに、物憂さを秘めながらも何かしら強い意思を示す瞳、そして鮮やかに塗られた口紅……その陶器のような硬質の顔には不思議な雰囲気が漂っていた。

カフェの窓から見える雨上がりの曇った空から、突然、淡い朝の光が公園の樹木に降りそそいできたとき、夫人の唇から洩れた言葉にわたしは耳を疑った。
彼女の夫の愛人、それも、一度も会ったことのない男性……わたしには、まったく予期しない言葉だった。なぜ、わたしなのだろうか……なぜ、四十五歳という年齢に達したわたしでなければならないのか。
夫人は表情を崩すことなく言った。あなたでないと、夫の愛人にはなれないわ……。

 突然、彼女が発した言葉に珈琲カップに触れようとしたわたしの手が止った。
「ごめんなさい。急に変なことを言ってしまって」と言いながら、彼女はハンドバックの中から煙草を取り出し、火をつけた。
 愛人……わたしはその言葉を脳裏の奥で繰り返したが、どこにもそんな言葉はわたしの中に見あたらなかった。そもそもわたしは、彼女と言葉は交わすのは今日が初めてであり、ましてや彼女の夫である男性に会ったこともない。
 わたしの瞳のなかに描かれた彼女の姿がぼやけ、白くなっていく。まるで描かれた夫人の像が白いキャンバスに吸い込まれるように。
茫然としたわたしの顔に彼女の視線がゆるやかに迫ってくる。
「どういうことでしょうか……」咽喉の奥を絞りながら吐いたわたしの言葉だった。
 彼女は薄い笑みを浮かべた。「あなただったら、夫の愛人になれそうな気がするの。ううん、あなたでないと夫の愛人にはなれない……」彼女はその言葉を、まるで自らに言い聞かせるように息苦しく呑み込んでいた。

 津村キミエ……それが夫人の名前だった。キミエ夫人の夫は、彼女よりひとまわり歳年下らしい。以前は貿易会社を営んでいたが、今は会社の顧問としては週に何度か出かけるくらいだという。そして子供のいない夫婦は都心の高級マンションで、ふたりで暮らしているらしい。
 胸の鼓動が微かに翳りはじめる。長い息がためらいながら咽喉に溜まるようだった。わたしは、愛人になるほど男性の興味を惹く顔立ちも、容姿も持ってはいない。むしろ目の前にいる夫人の方が男好きのする美しさをそなえているとさえ思う。わたしは、自分に向けられた愛人という言葉に、身をねじられるような違和感をいだいた。


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