愛人-10
三日後、いつものカフェでわたしの向かいに座ったキミエ夫人はゆっくりと珈琲をすすった。
「あのホテルであたしの部屋に入っていった男を見たでしょう……」
わたしは、小さくうなずいた。
「あんな男にあたしは抱かれているのよ。ええ、夫は知っているわ、あの男のことを。あんな男に抱かれているからこそ、夫はあたしを意識し、あたしは夫を意識することができる。あたしたち夫婦に残された絆とでも言えるものだわ」と夫人は冷ややかに言った。
夕陽が逆光になり、薔薇色の光の中で夫人の姿が翳りになり、少しずつ色彩を失っていく。
あの別荘の地下室の存在を夫人は知っていた……もちろん、その場所がどういう場所であるのかも。夫人は、夫がその場所に誘い、《そういう行為》を初めて交えた女がわたしであることに、いつもは冷静な彼女が動揺のような嫉妬をいだいていることが彼女の表情から感じられた。
「あの部屋の扉を、夫はあたしのために開けてくれなかったわ。でも、あなたはあの部屋に導かれた……」
夫人はすがりつくような羨望の眼差しをわたしに向けた。脆く危険な視線だった。
「妻として愛されるって、いったいどういうことなのかしら。あたしはもしかしたら夫に愛されているかもしれないし、そうでないかもしれない。でも言えることは、愛という言葉では言い表せない欲望をお互いにどんなふうにいだくことができるか、わからないということかしら……」
夫人は咥えた煙草を灰皿でもみ消すと、ゆっくりと立ち上がった。
「あの醜い男があたしを待っているわ……」
そう言った夫人はにっこりと笑った。「あたしは、夫を愛しているわ。そのことを確かめるために今夜もあの男に抱かれるのよ……」
――森に行ってみないか。突然、津村さんが言った。
なぜ、森なのか……そこはわたしの中にある息苦しい記憶の森……わたしは怖かった。森が現実となってわたしを包み込むことが。その日、津村さんとわたしは早朝から車で森へ出かけた。
黒く、暗い森だった。朝の希薄な太陽は、樹木のあいだに光の断片を降りそそぎ、それはわたしの瞳のなかで眩しすぎる光点となり、渦を巻き、瞳に朧な痕跡を刻んだ。よろけるような眩暈がした。そのとき、わたしの微かに震える肩を津村さんは優しく抱き寄せた。
どうして森が怖いのか……そう言った彼に、わたしは理由を言うことはできなかった。ただ、わたしの中にある記憶の森が虚空な霞のなかから黒々と炊きあがり、澱んでくる森の匂いが心と身体を息苦しくしていた。わたしは深い呼吸をした。
若い頃、この森に住んでいたことがあると津村さんは言った。もう、二十数年も遠い昔、ぼくはここで自給自足の生活をしていた。そう、自分という男を見極めるためさ……と言って彼は小さく頬をゆがめて笑った。
早朝の森は深い眠りについたように静まり返り、聞こえるはずない森の微かな寝息だけが深々と感じられた。樹木のゆらぎも、鳥の鳴き声も、遠くにある小川の流れる音もなかった。ただ、樹木の葉の先から滴るような雫の音だけが、わたしの耳に忍び込んできた。いや、それはわたしの中にある記憶が滴らせる雫なのかもしれない。わたしはぎゅっと彼の掌を握り締めた。
「ぼくはここでひとりの少女に巡りあった。でも、ぼくはその少女がどんな顔をしていたのか、憶えていない。《自分が行った行為の曖昧さ》だけが記憶の中にあるんだ」
閉ざされたわたしの記憶の窓が少しずつ開け放たれ、冷気がすっと胸のなかに流れ込んでくる。からだを包んだ堅い殻が溶解を始め、まるで自分の骨の髄まで削がれるように溶けていく。溶けたものは雫となって滴り、森の奥から響いてくる。時計の針が逆回りを始めると奪い取られた体の記憶が少しずつ露わになり、わたしは息がつまりそうになる。淫らで、危うく、それでいて悦びに充ちた像に。