素描-2
展示を示す誘導案内板はまるであなたを誘い込むように展示室の奥に導いていく。冷えきった部屋の白い壁から滲み出る空気はねっとりと澱み、建物全体がじっと息をひそめ、窓ガラスの外の樹木が風で微かにゆれるたびに、部屋に差し込む暗鬱とした光が足元で斑にゆれた。
ふたりがどんな関係であったのか、その疑問に口を閉ざしたように展示室の入口に掲げられてあった一枚の燿子の顔のデッサンがあなたを見ていた。恍惚とした目を虚ろに開いた彼女の横顔の浮彫は、仄暗い翳りに浸され、夫婦生活をともにした懐かしい燿子であって燿子でない、別の女性にさえ見えてくるのが不思議だった。
若き青年画家のデッサンのモデルになった燿子の姿が脳裏にゆらゆらと浮かび、なぜか胸奥が重苦しく痛みだす。描かれた彼女の首筋の白肌が幻影のように浮かびあがり、琥珀に染まり始める。南条画伯の鋭い眼孔から燿子に注がれる淫蕩な鼠色の光を感じたあなたは、茫漠とした、とりとめのない血流の蠢きに深く息を吸い込んだ。
足を踏み入れた展示室は、以前は邸宅の客間だったのか、芝生に覆われた庭に面し、高い天井と落ち着いた色調の壁で造られており、ひんやりとした空気が粘りつく。
鈍色の細い額縁に入れられた、真っ白なデッサン紙に描かれた鉛筆画が十数点並んでいた。燿子の顔を描いたデッサンは、入口に掲げてあった一点だけだった。あなたの目の前に展示されたひとつひとつの描かれたデッサンは、すべてが燿子のからだの《部分》であることに気がつくのに時間はかからなかった。
喘ぐような首筋、なめらかな腕、手の先の麗しい指爪、鎖骨から流れるように隆起した乳房とそそり立つ乳首、肩甲骨の淡い窪み、腹部の悩ましい腰のくびれ、肉感のある双臀の妖しげな切れ目、そして、匂い立つような太腿のつけ根の漆黒、艶やかさを感じさせる太腿、すらりと伸びた脚、膝やふくらはぎ、足首から足指の先……デッサンはあらゆる角度から彼女の《身体の部位》だけを詳細に描いていた。
彼女の肉体の細部だけを描いたデッサンにあなたは奇妙な違和感をもちながらも、精緻に描かれた線は、まるで今、目の前に裸の燿子がいるかのような錯覚にさえとらわれた。精密画のように描かれた線のすべてが白い紙の内側にある彼女の心と肉体を、まるでえぐるように微細な光に晒し、それは、南条画伯の燿子に対する情欲に充ちた息づかいのようでもあり、彼女自身をまるで彼が自分の中に内省的含みながら、濁りのない透明な情欲が熱く渦を巻いているかのようにさえ感じられた。
繊細で鋭い鉛筆の線が燿子という《女体》を、執拗にとらえようとしている視感は、まぎれもなく南条画伯の、燿子という女体に対する強く官能的な欲望そのものであることは間違いなかった。あなたは、彼が燿子の裸体を見つめる眼光と鉛筆をはさむ指の幻影を、澱んだ深海の底に蠢く遠い燿子の記憶に息苦しく重ねていく。
描かれているデッサンの緻密な線が、青年画家の凛々しい眼孔に漲る光に、優雅で滑らかな指に、あるいは妖艶な美を湛えた唇に見えてくる。いや、彼が向かっているのは真っ白なデッサン紙であり、同時に燿子の肉体に凝らされた彼の心象風景そのものだった。
そして紙の上で蠢く鉛筆の音は、燿子の肌を這い、照り映えた窪みをまさぐり、突起を削いでいる音だった。燿子は支配的に触れてくる画伯の視線から逃げ出すことはできない、彼に描かれることは、彼を受け入れ、彼に隷属することと同じなのだ……それも皮膚を剥がれ、極めて恥辱に充ちた、淫らな裸にされ、心を覆ったもののすべてを剥ぎ取られるという……。
あなたは、じっと目を凝らして、描かれた燿子のデッサンのひとつひとつを見落とすことなく見てまわる。静まり返った部屋の床に敷かれた大理石の上であなたの靴音だけが響きわたる。
この若い画家は燿子という女体を目の前にして、いったい何を考え、何を想い、燿子をどのような眼でとらえ、何を描こうとしていたのか……。当時、三十七歳だった燿子に対して、おそらく南条はこのとき、まだ二十歳代後半くらい年齢のはずだった。無駄のない鉛筆の線は、限りなく悩ましげで芳醇な香りを漂わせ、限りなく透明なエロスに充ち、限りなく淫蕩な欲望を語っている。繊細な線画がとらえた燿子の身体の、あらゆる部位の輪郭は、デッサン紙の中に彼女の肌の白さと肉の厚みを描き尽くし、まぎれもなく生身の燿子自身を露わにしていた。それは性的な不具者であった青年画家がそれまでどんな女性ともかかわりを持たなかったからこそいだくことができた瑞々しい官能とも思えた。