愛しいマスコット-1
上京したてで地方出身の白石果歩は、一人暮らしをはじめたばかりのワンルームで自分の手のひらをじっと見つめ、そこに「人」という字を書いて飲み込む仕草をした。知る人ぞ知る、緊張を和らげるための「おまじない」だ。
果たしてこの魔法がどのくらいの効果を発揮するのやら、新社会人である果歩には想像すら及ばない。とはいえ、今日は人前に立って簡単な挨拶と自己紹介をやらなければならない。
おしゃべりは好きでも自分の意見を述べるのが極端に苦手な性格なので、ユーモアを交えて笑いを誘う余裕などこれっぽっちもなく、こうして朝からそわそわしているのだった。
「やばい、もうこんな時間」
勤務初日から遅刻して目立つわけにはいかない。果歩は朝食もそこそこに身支度を済ませると、初々しいスーツ姿でビジネスバッグを片手にベッドを振り返る。
お姫様仕様の枕のとなりにクマのぬいぐるみが置いてある。「クッキー」と名付けたその愛くるしいぬいぐるみは、果歩がまだ保育園に通っていた頃から大切にしている宝物で、成人した今でも一緒じゃないと安心して眠れない。
「クッキーも一緒にお仕事行く?」
言葉を話さないぬいぐるみに向かって果歩は訊いた。
「うん。一人でお留守番なんてつまんないよ」
精一杯、声を操ってぬいぐるみごっこをする果歩。本人は至って真面目にやっているので痛くも痒くもないのだけど。
「んもう、しょうがないわね。言っておくけど、会社の人たちにいたずらをしたらただじゃおかないんだからね。わかった?」
「わかった、約束する」
「うふ。クッキー大好き」
ひとまず気が済んだ果歩はピクニック用のカゴバッグにクマのぬいぐるみを入れ、少しだけ緊張の解けた面持ちで自宅アパートを後にした。
通勤時間よりも物件の間取りにこだわったおかげで職場までは電車での移動となる。ローカル線すら通っていない田舎で育ったためか、果歩にとっては電車自体が大変めずらしく、矢継ぎ早にホームに到着する車両を見ているだけで目が回りそうになる。
自分の乗るべき電車を駅員に確認し、どうにか乗り込むことはできたものの、通勤ラッシュの車内はありえないくらいに人が多く、ゆっくりスマホをいじっている余裕もない。
「ごめんなさい、すみません」
誰かの靴を踏んでしまったような気がしたのであわてて謝罪したが、これだけ人が密着していたのでは相手を特定するのは無理だろうなと思った。それに、先ほどからずっと気になっているのだが、果歩の体に触れてくる何者かの手が確かにあるのだった。
それは明らかに悪意を持った動きでスカート越しにお尻を撫で回していて、怖くて声が出せなくなった果歩のことを嘲笑うかのように少しずつ大胆な行動へと変化していく。
まさか自分が痴漢の被害に遭うなんて果歩は想像もしていなかった。もし痴漢されたとしても相手の股間を蹴り上げてやればいいし、いざとなったら大声で助けを求めるつもりでいた。
けれども実際に体験してみて思い知った。卑劣な行為に対して感じるのは恥ずかしさと恐怖しかないのだと。
鼻声のアナウンスが次の駅名を告げる。まだ降りる駅ではないけれど、今の状況から逃れるためには電車から降りる以外に方法がない。
じわりじわりとスカートの中に忍び込んでくる何者かの手がいよいよ太ももに達しようとしたその時、間もなく駅に到着した満員電車は乗客を降ろすために自動扉を解放し、ほっとした果歩も痴漢の手を振り切って電車の外に出ようとした。
ところが、一旦は車両の外へ流れていたはずの人波が、もたもたしている間に逆流の波に変わったものだから、押し戻された果歩はやるせない思いで発車のベルを聞いた。それは紛れもなく悪夢の始まりを告げる合図だった。